親ガチャ・私の場合

「親ガチャ」というワードについての論争が巻き起こってますね。
もう収まりつつあるかな。

親の経済事情や文化・学力レベルと、子である自分の運命は切り離せない。
努力ではどうにもできない生まれながらの環境。
「親」という名のガチャガチャで何を引き当てたか(引き当てられなかったか?)ということをシニカルに表すワードなのでしょうか。

少し前までは、「ここまで育て上げたのに親のせいにするなんて!」「いつか言ったこと後悔するはず!」と憤る論調が多かった気がする。
しかし最近は、「そうじゃないんだよ」「別の視点に立てば見えてくるものがたくさんある(しかも実情は相当深刻)」というムードに変わってきた。
先週の「羽鳥慎一モーニングショー」は、親ガチャについてじっくり語られてました。
とりわけ浜田敬子さんの言葉でモヤモヤの大部分が晴れたんですよね。
モーニングショーとか荻上チキさんのラジオ番組は、それまで「自分が悪い」と思うしかなかったモヤモヤを「あなたが悪いんじゃない」「社会の仕組みでそう思い込まされてるんだよ」といつも晴らしてくれる爽快感がある。特にコロナ禍になってから自分と政治と社会の仕組み、その関わりがだいぶ感じられるようになってきました。

 

「親ガチャ」というワードを「けしからん!」と言う人の多くは、「親の苦労」「家族主義」礼賛の意識が高い方でしょうかね。
最近では、「若者の言ってることもわかるんだがね…」とやっと理解してきたようなおじさん政治家でも、「努力が報われる社会にしていこうじゃありませんか!」と高らかに語る。

「ん?」と思うのは、努力?ということ。
努力するのはどっち?
生活困窮者が裕福な人に追いつこうとする努力が報われる社会?
貧しい側の努力前提というムードがどうも根強い気もします。

いやいや、東大や慶応に入るのにものすごい努力しましたよ。裕福側だって努力して高い地位を得てるのです、という主張も見かけました。
でもたぶん、東大あたりに行ける人はご両親が勉強に関心も財力もある人で、子どもが小さいうちから手を伸ばせば勉強につながる本や情報がいくつもあったはず。塾にも通わせられるし習い事や文化面でも豊かさを与えられる。
あと「勉強習慣レール」にうまく乗せられる知恵というか手段をすでに持っている親・家族だったりするでしょうね。

 

中1の教育実習に行ったことがありますが、授業に慣れない私をいつも助けてくれたのが、とっても優秀そうな女の子でした。
「これ、わかる人いるかな?ど、どう思う?」というへたくそな質問に教室が静まり返ると、いつも一番に挙手してくれる。
また発言がクリアなんだこれが。「そう!そういうこと!」と、私とその子だけが通じる授業になってしまい、ほとんどの子が「わかんねー」と思ったはずで。
その子はいかにも聡明そうで、髪型もしっかり結わかれてて服装も白いブラウスがまぶしかった。

一方で、いつも忘れ物をしてくる子もいました。
大丈夫か??と思うほど宿題も持ち物も忘れてしまう。
その子はたくさんのきょうだいの長女だった。もしかしたら家でやることがたくさんあるのかもしれない。
当時の私はそこまで想像できてなかった。
「授業がわからない」ということについても諦めきっていて、どうにかしていきたいという欲がすでに削がれてるように見えた。
想像するに、聡明そうな子は生活に余裕があり、勉強など「自分のこと」に取り組める時間がたっぷりあったんだと思う。
忘れ物の多い子は、家に帰れば「生活」がまず第一優先で、それはおそらく小さいきょうだいの面倒、そのあとはTVなど自分の時間を過ごすことで疲れを紛らわし、勉強や宿題は(今は)さほど大事ではない。後回しになりがち。もしきょうだいの世話とかしてなかったとしても、その子にとっては勉強よりもっと大事なことで心を満たすことを優先してたんじゃないのかな。たとえそれがゴロゴロするんでも親に甘えるんでも食なのだとしても。

私はその子から、罪悪感も見えなかったことがとても気にかかった。諦めきっている。
でももし「授業がわかりません。だからもう一度教えてください」と言われたら、私はその子のためだけに時間を費やすことになる。それは困る。「だから授業をちゃんと聞いててね」としか言えない。もし私が新米教師なら、「ほら、聞いてないじゃない!」とキレるんだと思う。
集中できない子を「努力してない側」と見ちゃうのかもしれない。

 

前職での話。とても仲よかった後輩が、入社2年でもう退職するという。
最初からそう決めてたと。留学してMBA取得して、いずれ経営者になるという夢を叶えるため。
私もそのころすでに資格取得の勉強をしてて、合格できたら退職したいと思ってた。でもそれはまだ2年はかかりそう。
少し嫉妬まじりに彼女に「まだ社会経験も積んでないのに経営者を目指すの?」と言ってしまった。
彼女は社長の娘で、資金は親が全面支援。数々の社長の書籍などもすでに読んでいて、「チャンスに乗れる環境があるなら努力より先にまず乗ることだと思う」と明確に言った。
そのあとは応援したけれど、今回の親ガチャ論争の折に、「チャンスに乗れる環境」という彼女の言葉がくわっと蘇りました。

私にはその環境はなかった。比較すればの話。留学するという資金。入社2年目で退社しても生活できる資金。ほとんどの若者はないと思う。でも一部の裕福な人にはたっぷりある。
彼女は実際経営者になり、支店も拡大中。もちろん努力や人脈作りもすごいしてきたと思う。
しょっちゅう異業種パーティーに行っていた。私なんかお金があってもできる気がしない。
でも!本当にお金があったら「できる脳」だったのかもしれない…

彼女と一緒にいることで私にもそれなりにチャンスが舞い込みました。
彼女の運転するBMWやベンツの助手席に乗れたりとか、おいしい店で食事ができたりとか。
掃除機や自転車も、彼女のお父さんが新しいもの出るたびに廃棄するので、思わず「捨てるんなら欲しい」と言ってしまったことがあった。でもさすがに本当にもらったりしないけど。
お金持ちと仲が良いと確かにいろんな恩恵を受けられます。お金持ちの存在が自分をも幸せにする。書くほどに自分の貧民度と卑屈さが漂っちゃうけど。しかしそれこそが格差。友達なのに格差。

いや、私だって彼女に与えてあげられるものはあったはず。笑わせたり元気付けたこともあった。ただ、彼女の方が何百倍もポジティブ。親に怒られたことはほぼないと言う。
「あなたがしたいこと全部叶えてあげるから大丈夫!」というお母様の言葉で育ったという。
叶えてあげられる資金力…

でも私は自分の親を資金力とかで恨むことはない。
父は膨大な借金を抱えて、母は「情けない…(ごめんね」」と私に謝るけど、そのせいで可能性が狭まった!とはあんま思ってない。でも実際は狭まってんでしょうね。ただそれも比較した場合に浮き上がるだけのこと。

 

スタートラインが違う。選択肢の幅が違う。
何かをしたいと思ったときに「お金があるよ」ということなら、壮大な可能性に手が届くようにも思える。
私は推薦で立命館に行きたかったけど、「さすがに京都まで行かせてやれるお金はない」と言われた。
恨みには思わないけど、「新聞配達したりバイト掛け持ちしてでも京都に行くんだ!」という熱意のなさがだめだったんだなーと思ったことはあった。努力が足りないと。
でもそうじゃないはず。
生育環境で諦めざるを得ないことがたくさんある人がいる一方、その生育環境で海外にも学外の交流にもたやすく足を伸ばせる人がいる。
いわゆる「恵まれた」という人ばかりがこの社会のトップになる実態、それがあまりにも歪みすぎてるんじゃないか?ということが問題として提起されてる親ガチャ問題なんでしょうね。
資金力のある人ばかりが政治家や官僚になるのが現実としたら、本当の庶民の暮らしなんてわかる?

私が小学生の時は、給食費が払えないおうちの子とか、夜逃げしちゃってもう来なくなったという子が何人かいた。隣の家に子だくさんの家族が引っ越してきたと思ったら、ある日もぬけの殻になってたとか。
一貫私立校出身という人とこの話をしたときに、「そういう人見たことない。ラッキーだった」と言った。
そのときはピンときてなかったけど、何がラッキーかよくわかんない。無菌室のようなところで子育てしたい・教育受けさせたいという人は時々いるけれど、そこで一体何が養われるのだろう。あっちとこっちという境界を意識にたたき込ませるだけじゃないのかね。
だから無菌室でずっと教育を受けてきた子が大きくなって企業のトップになったり政治家になったりとか、それがどうも現実っぽいよという側面まであらわにしたのが親ガチャ論争ということと思う。こんな強烈な言葉が飛び出して初めて「そこかしこにある格差」の議論が高まった。これもコロナ時代ならではかな。こういう議論とてもいいと思います。

 

 

 

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