愛を知るまでは死ねない2022年

あけましておめでとうございます。
2022年もどうぞよろしくお願いします。

紅白のあいみょんの曲「愛を知るまでは」が心に沁みた年末でした。

愛を知るまでは死ねない私なのだ!

 

今回の年越しは久々に1人。
夜まで仕事があったけど、お蕎麦を買って母と猫と年越しをする予定でした。
しかし31日は朝から頭痛・体調不良。
正月の仕込みやお皿の準備はしてあるから年越しのために帰らなくてもいいか…やめとこう…結果的にそう決めたけど、その答えを出すまで罪悪感と闘い続けた。

幸い母は元気なので、「ごめんね」と電話して1日に帰ることにしました。
そうしたらば、頭痛は消えた。
デートの後、ずっと頭痛と体調不良が続いてたのでした。

1人でコンビニの蕎麦を食べながら紅白見ている状況に、すごく安心している自分がいる。
そして夜。
布団に入って滂沱の涙。
私は何を思っていたのか。
それはだった。
「愛の年越し」でした。

今までこういう状況のとき、罪悪感で泣いたりすることはあったんですよね。
私ってどうしてこうなんだろう。
私は私が設定した「べき」を乗り越えられなかった。
そうしてまた「だからあなたはダメだ」とみなされるだろう…

しかし今年の愛とはなんだったのか。

 

デートのあと、なんかふと涙がにじむ…ってことが続いた。
それは「楽しい」とか「幸せ」とか、「切ない」ともちょっと違う。
マイナス感情よりはプラス感情なのだけど、なんなのかがわからない状態。
しかし31日の夜に、あれはなのだと感じた。
愛を差し出された。

しかし「愛してます」とかいう具体的な感情を相手から受け取った、とかとも違う。
彼の存在=
それを感じている私も=
その図式に「はっ」と気づいたら滂沱の涙があふれたというわけで。

 

あの日の何もかもが愛だった。
互いへの気遣い。
もっと相手を知りたいという質問。
お気に入りのカフェへ案内したいという気持ち。
重いものを持たせたくないという配慮。
そして改札までの見送り。
この世界はこんなに優しいことであふれていた。
それを私が体験したことは奇跡でもあり、当然でもある。
でもたぶん、「当然」と思えるまでに数日かかった。だから体調不良が続いたのかもしれない。
それは、これまで私がどうしても欲していた愛とまったく違っていたようです。

私がずっと欲していたのは、赤ちゃんのような愛。

泣いたり怒ったりして、人から愛をもぎ取ろうとしていた。
その「人」というのは主にお母さんだった。
一番風呂ならぬ一番愛を得る権利が私にはある!ということに、いつからか躍起になっていた気がします。
誰と交際しても、赤ちゃんベースの愛しか表現できない。
赤ちゃん愛だから、「私から何かを差し出す」にも限界がある→「できないからくれ・もらう権利がある」という態度に変わっていく私
そして誰と友達になっても「一番」を欲した。
でも一番は無理なんだと、いつも痛感しまくる。
ならばまた「お母さんの愛」に戻る。
赤ちゃんのような愛は、「与えられて当然」という受け身がベースにあるっぽい。
「あげない。まずくれ」という傲慢さ。
それが許されるのは本当の赤ちゃんや幼児だけ。しかし本当の赤ちゃんや幼児には傲慢さなんてないはずです。傲慢なのは赤ちゃんみたいな愛を欲する大人。大人赤ちゃん。

デート後に感じた愛は、それとは次元が違うものでした。
両思いという感触とも違って「相互」で生み出される何か。大人の愛。
赤ちゃんの愛とは矢印が違う。
大人の愛とは「2人で作り上げるもの・2人で生み出すもの」なんだ!!!と涙しつつ、「大人の愛でちゃんと結ばれるまでホント死ねねぇ…」と感じまくった年明けでしたよ…

 

私はいつだって結婚を望んでいたくせに、「母の一番」を同時に目指してたようなところもありました。きょうだいとの確執はそういうのも原因だと今ならわかる。
円満な結婚生活を送ってる人って母親に強いこだわりなどべつに持ってなかったりしますね。母親の愛から順調に卒業されたのでしょうね。
私は母親に超こだわるほうだった。
「お母さんが夕飯作ってくれてるからもう帰るね」という主義になってから赤ちゃん愛に舞い戻ったのかも。
お母さんからの愛は絶対安心ですからね(私にとって)。
しかしそのお母さんへの罪悪感。生まれ育った家族との親愛をキープしないと…という頑張り。頑張りすぎて憎しみに変わったりもした。
それらから卒業する時が来たのかもしれません。
これからは大人の愛の中で生きたい。

それは数々の神話に描かれたことだったですかね。
実母や継母から逃れて、新しい伴侶との人生を選ぶ。
人がなぜ結婚をするかというと、「親からの愛」より「大人の愛」のもとで生きる方が人生のバリエーションが広がると本能的に感じるからかもしれません。

かといってデートの人が私の伴侶になるかはわかりません。
しかし私は最愛の人と結婚して、大人の愛のもとで生きていこうという意図を設定しましたよ2022年(今日は新月だし!)

そう決めたら目に入るものすべて「愛」
送ってないのに年賀状届けてくれる人の愛(しかも手書きメッセージ入り)
あけおめLINEをくれた人の愛。
少し遅れた私を待っててくれた同僚の愛。
ぎぼむすのすべてが愛(何度見ても泣ける!しかも脇役にまで愛が浸透しきってる)
無料の2022年占いを読めることも愛

こういう思考に至ったのには、31日に出会ったブログがきっかけでもあります。
受け取るだけで、奇跡が起きる

そのブログでは繰り返し、「この世は鏡(自分の内側が外側に反映されている)」ということが書かれていますが、それを感じるのはとても苦しい。
自分はなんて恥ずかくて醜い感情にまみれてた人間だったんだと、また罪悪感を募らせる。しかし罪悪感も反省も不要という。私は罪悪感を抱けば抱くほど何かから免罪を得ているという意識も根強かった。反省してる方が楽だった。
しかし私の世界はドロドロ醜いばかりだったか?と問われると、いいえ、まったく。とっくに愛にあふれていた。

結婚や家族に関してネガティブかつ諦めきった言動をこのブログでもしていたことがありました。
それなのに!ご家族やご夫婦、お子さんの鑑定が舞い込むことが不思議だった。
それらの鑑定を引き受けるたびに、なんとも言えないすがすがしさが胸に広がるのです。
縁ってすごいなぁと思うのもあるけれど、家族のメンバーで力を合わせて愛や幸福を生み出していこうというご依頼者様のすがすがしさを私は受け取っているのでしょうね。
そして私の中にもまた、家族というすがすがしさを受け入れるスペースがあったみたい。
(だからって家族礼賛という国策みたいのは嫌悪(警戒しまくり)

 

しかし今年すぐまた頭痛が起こった。それは仕事始めのあと。
頭痛は変化のサインなのかもしれない。
「今までと違う道を歩む・歩みたい」という自分を抑えられなくなってる、のに抑えてる痛み。

今年もどうぞよろしくお願いいたします!

 

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