「べき」とか嫌悪感

自分を見つめるワーク続いてます。

この「自分を見つめる」を、私はナチュラルでほぼやれてなかった。

前にも書きましたが、自分の心より「目の前のタスク」を優先してたんですよね。
「べき」の優先。
自室でPCと向き合えば、ひととおり最新情報の更新。
誰かのブログ、ヤフートップページのチェック。
そうしたいからやってるとも言えるけど、せっかく好きなラジオかけてても、そういうチェックで聴けてない。
じゃあ湯船で自分を見つめるか…と思っても、風呂上がりの「スキージーで水分を取る」というタスクで頭いっぱいになってすぐ上がりたくなる。
見たかったTVやってても髪を乾かすことが先。
それで心が満足するならいいんだろうけど、何はともあれタスク・タスク・・・
やっぱ心より「べき」優先チックなんだな。

「自分を見つめる」というのは、自分の心の声を聞くということ。
本当はどうしたい?好きなの?嫌いなの?
何がどうだったら安心できて、何を恐れているのだろう?

私は「寄り道さんぽ」みたいなこともほとんどしないけど、この間やってみた。ぐるっと遠回りして帰ることにした。
そのとき心の声を聞こうとしてみたら、聞こえる聞こえる!
自分の「どうしたい・何が嫌だ」
散歩は頭がクリアになっていいですね。

私はもともとショックを受けやすい。
予想外の出来事や反応にあうと引きずる。
そのショックは「どうすればよかっただろう?」と大体自分に向かいますね。
だからかショックからの立ち直りも非常に遅い。
この「非常に遅い」ということすら自分でわかってなかったことも散歩で自覚されました。
答えがなかなか出ないのは、ずっとショックを引きずってたから・自分を責め続けるから。
「どうしよ・どうしよ」という状態でハムスターがずっと同じ運動してるみたいな。
頭の中であのカラカラがずーっと回ってる。

その状態で「本当はどうしたい?」って見つめてもすぐに落ち着くことはない。
でも根気よく聞くんだ。
なんらかの問いがヒットすればカラカラは止まる。
不安?怖い?ムカつく?
びっくりしたね。悲しかったね。寂しかったよね…

私はこれを丁寧にやれてこなかった。
とりわけ「悲しかった」「寂しかった」ということに蓋をしすぎて、結果、不満や嫌悪感となって暴発するという悪循環。
「嫌い!」「信じられない!」という感情で大事な関係をいつもすぐ決定づけようとした。

 

ところでこの間、部屋にGが出ました。
目の端に一瞬映った影。それは気のせいじゃなかった。
あの一瞬だけで違和感と嫌悪を巻き起こす存在ってすごいですね。
もうほんっとに苦手な存在ですが、なんとか殺虫剤で仕留めた。
しかし動かなくなったものを片付けるのに1時間は要したでしょうか。
ほうきとちりとりを手に持ったまま近づくことができない。
なんとか頑張ったけど、驚くほど心が恐怖でロックされてしまった感じ。
この日は動揺だけで1日が終わった。

 

 

その後、とある人を思い出してたらなぜかGの残像も浮かんで消えなかった。
嫌だ、嫌でしょうがない、なんとなく距離の近いあの人が気持ち悪くてしょうがない。
それはなぜか。
私は「境界線を破られることが大嫌い」ということがわかった。

私は小さいときからむしろ境界線ないみたいな環境で育って、喧嘩も不満も本音をぶつけ合ったり、予定をなんとなく把握されたりするのが自分の「べき」と思ってたかも。
小3のとき、クラスの超可愛い子から「あなたのタンスを今度整理させて(ダサいからコーディネートしてあげる)」と言われたとき、喜びとムカつきが入り混じったわけわかんない感情になったことを思い出しました。
超可愛い子にズケズケ入られる感覚、悪くない…しかも家に来るって?(ドキドキ)
でも今ダサいって言ったよね…(モヤモヤ)
その子は、このあと出会うモンスターの凝縮版のような子だった。
一方的に境界を破ってきて、人の心をかき回して、最後は私の価値を下げて去っていく。

大人になってからも、「好き(あなたの服も髪も)」って目を輝かせて近づいて、頭撫でてきたり体に触れてきたりしたとある女子。
恋みたいに私は舞い上がって、すぐ心を開いちゃう。
でもそういうタイプは「開く・開かせる」ことがいわば趣味みたいな人で、中に入ろうとはしてこない。
酷い場合は中をちょっとのぞいて「わー」とかいう感嘆か侮蔑かわからない声を上げて。去っていくならまだいいほうで、開いた心を操ろうとするタイプもいる。
大げさに言ってますがね、私はもうだまされんぞ!
境界線がないこと=良きこと(不快克服に頑張る)パターンを塗り替えたい!

 

ところでGと遭遇した時、何がそんなに嫌なのかを分析してみた。
1:遭遇したときのショック(一体どこから?境界線の崩壊危機)
2:仕留めるときの罪悪感(失せろ!!という強烈な心理)
3:なきがらの処理(存在を目の前から消す)

1が相当不快なんだということは今回わかったこと。
2にも振り回されるけど、3が思いのほか恐怖だったことにも気づきました。なかなか処理できなくて1時間突っ立っつなんてさ。
なきがらをずーっと見てるうちに苦痛と仲良くなれるんじゃないか、嫌悪感がすーっと下がったら処理できるんじゃないか、その瞬間を待っていた。
しかし1時間経ったとき、心やべぇなと思ったんですよね。
だって「苦痛と仲良くなれるかも」ってなんだよって話で(なれねーよ)

自分の嫌悪感を飼い慣らそうとするのが私のパターンだったですよ。
自分さえ「嫌いじゃないよ」ってなれば事態は改善するのかも、そのやり方でずっとやってたから同じ目に何度もあう。
本当は嫌だ。境界線破られるなんて不快も不快。それを感じてよかったのに押し込めてたんだな。
嫌ならその存在が目に入らなくなるほど距離をとればいい。それができなかった。どうすればいいかわからなくて心は突っ立ったまんま。

私は30代まで、「自分のこと嫌いなんだな」って感じる人にほど大きな挨拶をしていた。
でもその挨拶で相手が心を開いてくれることはない。むしろ一層うざそうな態度をぶつけられるだけ。
私は「べき」を守ったほうが勝ちとどっかで思ってたんだと思う。
誰にも分け隔てなく大きな挨拶。私はフェアな人間だ。私は正しい。
でも心は参っていく。
「べき」じゃ心は守れない。

罪悪感も「べき」から生まれますよね。
私はまだたくさんの「べき」に縛られている。

 

ここまで心を整理できたのは、田房永子さんの新刊を読んだから。
文章がまた面白い。電車内で何度も吹き出した。
田房さんの「心を見つめる」術がとてもわかりやすいです。

 

 

 

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