愛のスイッチオフ

自分は愛に欠けている・愛情深くないと思うことが時々ある。

自分へのそういうダメ出しは、大抵誰かとの比較の中で起きますね。
みんな家族への愛が深いな〜とか、パートナーのことそんなに思ってるのか(私はそこまで思えない気がする)とか。
それはほとんどの場合、「家族」と「好きな人・恋人」について。
友達や親類への愛情を自分で責めることはほとんどない。

でも最近、「自分は愛に欠けてるなんてことはない!」ともちゃんと思えたんですよ。
家族のみならず、自分と何らかの縁があってつながってる人にちゃんと愛を感じている。
中には嫌いな人もいますがね、不幸になればいいなんて絶対思わない。
関わり合いは最低限にしたいけど幸せであれ、と思ってる。

ただ、なぜ嫌いなのかというと、「私を幸せにしてよ(私の機嫌をとって!)」と迫られてる気がするから。それが嫌いな人の共通点。
そういう人とは距離を取りたいけど、幸せにはなってほしい。あなたを幸せにするのは私じゃない。でも「私なんじゃないか?」という罪悪感を抱かせられる。だから距離を取る。「嫌い」みたいな態度になってしまう。そんな態度をした自分をまた責める…ということで、嫌いな人って1日中その人のこと考えちゃう、みたいのがつらいですよね。

同じくらいずっと考えちゃう人、それは「好きな人」
私の場合、母親とか異性の好きな人・恋人となる。
つまり嫌いな人と好きな人って、自分の気分のアップダウンに大きく関係してくる人、それが自覚された。
「スイッチ入れっぱなし」ということです。
好きな人も嫌いな人も、「スイッチを切ってはいけない」という気持ちになるんですよ。
どっちも罪悪感に関わってくるんだけど、好きな人のほうは「スイッチを切ったら消えてしまう」という不安感もプラスされる感じ。
ずっとスイッチオンしてないと、何か大事なものが消えそうな恐怖というか。
大事なもの、それは「自分」だったのかも。
「愛しい人を思う」、そこに「自分」を大きく乗せすぎているというか。
スイッチオフしてしまったら、「自分」が急に感じられなくなるような不安・恐怖。
だけど最近、スイッチ切ったほうが全部うまくいく体感があった。

スイッチ切るというのは「その人のことを全く考えない」ということ。
仕事中だとそれは難なくできるのに、仕事が終わると急に思いで占められたりする。
慌てて「愛しい人スイッチ」をオンしちゃうんですよ。
そんで余計な不安で占められたりね。高齢の母親は今日も元気で過ごしただろうかとか。思い浮かべたら居ても立ってもいられない。そういうときに限って連絡つかなくて気が気じゃない数時間…(でも結局いつも大丈夫)
そういう不安をまったく感じなかった日・週、というのもあります。
まったくのスイッチオフ。最近特にそう。
オフする…つまり手放すと不思議なことに、母はもうできなくなっちゃったかな…と諦めてたような家事を再開してたりとか、日常に奇跡や喜びを感じることが増えたりすんですよね。

だからといって「さあスイッチを切ろう!」という単純な呼びかけはできません。
思いが強いほど、それは簡単なことじゃないとわかる。
その人にしかわからないような誰かとの因縁・歴史ゆえの強い感情、その人なりのストーリーがあるのだろうから。
「好きな人・恋人」は、「母親」のバージョン違いという感じがします。
スイッチオフできないベースは母親のそれと同じ種類と思う。
「消えてしまう」、それが妄想めいた不安としても、「消えたらどう怖い?」ということを自分の幼い領域に丁寧に問いかけ続けないと出てこない答え。
私を照らしてくれる人、その存在が消えたら意味がないように思える自分。
本当はそんなことないのにね、という安心感も内側にしかない。
誰の不幸も願うわけのない自分が愛に満ちてないわけはない。
スイッチオンでつながる縁を縁として受け入れている自分。

 

友達とか、どんなに楽しい1日を過ごしても、バイバイと別れた途端会話も忘れる速さでスイッチオフ。私の場合。
だからこそ何年も良好な関係が続くんだと思いますよね。
嫌いな人はですね、「なんでオンしないわけ?」「ふーん、オンしないんだ?」っていう強制スイッチを入れてくるように感じる人。
良好な関係の人は、私がオンしようがオフしようが自由にさせてくれますよ。
なのに時々「ねえ、スイッチ入れなさいよ・入れたげる」っていう主導権を勝手にとってくる人がいる。本当嫌い。
新人の頃、怖い先輩上司が給湯室で洗い物をしてて、「あ、洗ってる」と思って通り過ぎた私ですが、「先輩がこうして洗ってるのに無視するなんてどうかしてる!”私がやります”と引き取りなさい!」と怒られたことがあった。
あの頃は「先輩を給湯室に立たせるもんじゃないのか」というそれなりの学びだったけど、要は「察しろ」ってことですね。水仕事=嫌な(底辺の)仕事=新人の仕事、と。

その人はいつもそんな感じで、「先輩が1人で予定もなく帰ろうとしてるのに、”飲みに行きましょう”って言わないのね」とか言ってきたりする。私のスイッチオフを許さないような人。ずっとオンしてないと怒ってくるような人。そういう人との出会いが多いです。
あの時代の新人はそうするしかなかった・社会勉強の一環だとしても、今もそういう人に巻き込まれるというのは私の何らかの投影なのだろう。
「なぜ無視するかわかる?せいぜい考えなさいよね」、みたいな人へのスイッチオフを潔くできない私。
「私が何かしてしまったんだろうか…」という他人軸スイッチをオンにしてしまう。
少し前までの私です。今はこれらパワハラと割り切ってます。

あと「あなたを助けますよ」という人ですね。この人も勝手にスイッチ入れてくる。
何も困ってないのに、人から愚痴を引き出した途端「わたし助ける人・あなた助けられる人」という上下関係を作ってくる。
一見優しそうな人ですが、「私に感謝しなさい」という支配がにじむ。
でも優しそうなので、「感謝したくない」というスイッチオフに罪悪感を覚えるのです。
この人と距離を取るのにすごく神経使いました。
いっとき本当に頼りにしてたことがあったからなおさら。あのとき私は洗脳されかかってたと思う。
この人がいないと何も判断できなくなりそうな危機。だから離れたのに、「ふーん、私のアドバイス要らないんだ?ふーん」という視線に刺される思いをする。
わかりました、壺買います…というところまで行きかけた。いや、例えですけどね。
「私がいないとあなた何にもできないでしょ」と言われてるようなスイッチオフをし続けることが、ビクビクながら今でもまだできている。
彼女は彼女で、”誰かのスイッチ”と自分の存在意義のあたりが死活問題なんだと思う。人のために動かないと消えてしまいそうな強迫観念があるのかもしれない。それも私自身の投影かも。
「心の奥底の”私”がどうしたいか?」、人に明け渡してはならない領域をなんとしても守る。そう宣言しないと他人に操られる隙が私にはあったのです。

「家庭教師のトラコ」は、なんだかなと思うとこはあるものの、さすが遊川さんの脚本、グサグサ入ってくる言葉がたくさん。映画「家族ゲーム」のオマージュ?と感じるドラマです。
「あなたはどうしたいの?」と、トラコは何度も少年少女に問う。
痛い質問で、これが。
だけど遊川さんはこの国が一億総他人軸になりかけてると感じてるんだと思う。
「あなたが決めてよ」ってトラコは少年や保護者に詰め寄られる。あーでもない、こーでもないと他人軸思考で埒が明かない家族に冷めた視線を向けるトラコです。
冷めた視線の橋本愛さんが本当美しい。
でも「来週も見たい」と思えるのは、トラコの同居人・中村蒼さんを見たいから。トラコに尽くす役。
本当優しげな笑顔の人ですよ。あの2人どうなるんだろう。

 

「投影」と何度か書きましたが、嫌いな人に共通するのは「私を見て!私を大事にして!」というアピールが侵害レベルに激しい人。
ずばり私の心の叫びの投影と思う。
自分の思考より誰かの思考を正しいと思いがち。これは幼少期に心当たりがあることですが、ともすると外に正解を求めがちな自分に心はいつも警告してんだな。

ここんとこは自分が感じたことをメモしてるようなブログです。
星にあんま触れてない。
星でワクワクすることがあったらそのうち書きます。

 

実家のCDボックスを久々引っ張り出したら懐かしいのが見つかった。
Yukari Fresh

 

 

 

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