ぐうたらの衝動

12星座の中には、働き者のサインもあればぐうたらしたいサインもあると思う。

働き者といえば、なんたって乙女座ですね。
あと活動宮も「すぐやる課」傾向はある。

ぐうたらしたいであろうサインは不動宮っぽいかなと思うものの、プログレス含めて不動宮にしか星がないなんてことはないと思うので、「100%ぐうたらタイプ」とかもいないんじゃないでしょうかね。
また本来のぐうたら度が高かったとしても、それを表に出さないようにする人も多そう。

ただASCや月が不動宮だと、衝動としてのぐうたらはあるんじゃないかなと。

私は月が獅子なので、本当は部屋で何時間でも座ってたい。
ただ金星が乙女なので、「仕事を片付けてからぐうたらする」というミッションを自分に課す。
ASC牡羊・太陽蟹なので、ミッションが決まったらすぐやる課。洗濯や掃除など、やると決めたことに邁進する。
結果、本当にぐうたらしてる時間はそんなにないけど、一歩も外に出ない日は週1はある。
ちなみに月獅子は「ワクワクしてたい」ので、「ずっと寝てる」というぐうたらは選択肢の中にあんまないです。TVやPC、本の世界にひたすら入る。

母は月が蠍で、蟹に多く星を持ってますが、近隣・仲間とのおしゃべりには積極的であるものの、家事のあとは横になってTV見てるタイプ。

とある身内の女性はASCが蠍座で、彼女もわりと寝てるタイプ。
そして現在、半ば引きこもりの生活をしている。
彼女は活動宮や乙女にも星が多くあるので、一見働き者タイプとは思う。
確かに乙女座の年齢域までは、家族のためにがむしゃらだった。

 

彼女が引きこもりになったとき、周りは動揺した。
「自分のせいなのか?」と感じた家族や関係者もいた。
「早くよくなるといいね」というお決まりの文句は定期的に誰かから出る。
「いつか元に戻るだろう」と、口には出さなくても「それまで見守ろう」という温かなポーズは関係者からにじむ。私もそう思ってた。

が、ふと記憶がよみがえったのは、彼女は結婚前も、こもり気味だったということ。
結婚を機にものすごく働き者になり、そのころの年齢域はまさに乙女座。
子どもたちのお受験にも熱心で、その甲斐あって子どもたちはなかなかステイタスのある社会人になった。
その子どもの巣立ち(一人暮らし)と、年齢域の移行・そして再度の引きこもりが重なる。

現在の年齢域惑星は魚座。ノンアスペクト。5室。
「役立つ」という社会的な具体性とは確かに距離があるような。
あと年齢域が魚座の時代って、「自分って宇宙人」と感じるような社会からの浮遊感を抱きやすいかもです。
金星が魚座の人で、学生時代はとにかく周りに合わせられず孤独だった、という人もいました。

 

彼女は苦しんでいる。はず。たぶん。正直わからん。
というのも引きこもっているので、実際の彼女の声を聞く人がほとんどいない。
でももしかしたら。

自分含めた彼女の周囲の人間が「いつか元気に」「元に戻って」ということを願っているかぎりは、彼女は苦しいままかもしれない。
だって彼女はいつだってぐうたらしてたじゃん。
寝床がすぐそばにある今の生活は、実は彼女らしいスタイルなのでは?
…なんて言ったら、めちゃ怒られるかね。

でも、、、ぐうたらしてたい衝動がいつでもある人が、年齢域効果とはいえいっとき働き者になったとして、その反動だって起こりうるんじゃないだろうか。
本当の自分らしさを時間かけて取り戻すように。

でも社会はきっとぐうたらな自分を許さないだろうという罪悪感で日々を過ごすなら、つらいですよね。

 

彼女は現在、夫と2人で暮らしてるけど、会話はほとんどないらしい。
夫は働き者タイプ・潔癖気味でもある。
私からそう見える像も本来の彼らしさじゃないかもしれない。それはわからない。
その夫が彼女をどんなふうに感じているだろうか。でも「向き合う」というミッションへのエネルギーは今の彼女にはないだろう。

 

母のことも、私はずっと働き者と思ってたし、介護やパート掛け持ち、大家族のための家事と多くのことをこなしてたけど、「めんどくさがりなんだろうな」というとこも端々から感じてた。
それをフォローするのが10代・20代の私、とも思ってた。
けど、そういう若かりし頃の頑張りが中年の自分を追い詰めることもある。

その母は今、「なにもしない」ことを実に楽しんでるように見える。
そりゃ80後半だし、できないことも増えてきた。
でも10年くらい前までは、母は死ぬまで料理や庭いじり、家事を楽しんでやるんだと思ってたけど、意外にそうではなかった。
ヘルパーさんに家の中のあれこれ手伝ってもらって、リハビリに行く日々は充実しているという。
もうずーっと何十年も「家族のため・誰かのため」に生きてきた母は今、「自分のことだけ」に集中して生きている。いつ横になろうが自由な日々。気が向いたら庭に出て花を摘んで。

 

いつでも人を苦しめるのは「こうあるべき」
そうなれない自分。そうであったのに。みんなはできてるのに。
学校に行きたくない人は、学校の規律性や全体性と「自分らしさ」に乖離があるんだろうし、友達がいない人は、「いわゆる友達」の距離感が無理なんだろうし。
「自分らしさ」で「正解なんだよ」と、言ってあげるのは簡単だとしても、その人の浮遊感や孤独感に誰が何をしてあげられるというんだろう。
この間、「トー横」に集う少女たちを追った取材報道を見たけれど、虐待経験のある子がとても多く、本当は家に帰りたくないけど生活のために帰っても、追い出されたりする。
「家を出た」という決意は生存衝動につながる大事なもののはずなのに、生きるために売春するしかなかったりする現実のループはつらすぎる。

「こうなったら幸せな”はず”」という理想を誰だって追求したい。
そんで恋人を求めたり家族になったりするんだろうけど、”はず”って何だったんだろうね。
今じゃ自己責任みたいな空気ばかりが漂う。
知り合いの引きこもり彼女は結婚後、幸せな”はず”をコンプリートしたように私には見えた。
今はただ「お疲れ様」としか言えない。
よく頑張ったよね、ということをもっと素直に言い合えたらいいんだろうね。
そんで頑張りたくない自分でもこれだけは頑張ったと、もっと堂々と思ってもいいと思う。

私も一歩も外に出ない自分を肯定できたのは最近で、こんな自分にしてはよくやった…ってことを知るのがこの自分しかいない絶望は、いつしか開き直りに変わっていた。
「よくやった」の幅を1日1ミリ増やすように自分を褒める。
奮闘も葛藤も頑張りもない人なんていないのだからね。

 

 

 

 

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