昨日、NHKの「地震のあとで」を見た。
原作は村上春樹。
ラブホテルが出てきたから嫌な予感…と思ったけど、やはり男女は抱き合った。
知り合ったばかりの2人だけど、女が誘った。
「あした地震くるかもしれないんだから、楽しいことしなきゃ」
楽しいこと・・
村上春樹と性描写は欠かせないというけども。
私は数年前から性の描写がひどく苦手になっている。
個人的な感慨といえばそうなんだけど。
最近、「1Q84」を読み始めた。
早くも性生活の話が出てくる。
若い男性は10年上の女性とセフレ関係。
なかなか充実しているという。
年齢差のある・しかも女性が年増あたりの設定だと、エロく描かれたりしますね。
見下されたようなキャラで描かれるのも嫌だけど、「年上女の良さといえばエロ」みたいな描写も嫌と感じた。
SEX的なことを軸に語られるのが嫌なんだと思う。
いわゆる「おじさん」という年代の人たちが世間に敷いた「性」の価値観。
私はその価値観の中で泳いだり溺れそうになったり、とにかく長くそこに浸かってたことを思い返した。
おじさんが設定した価値観は世間の価値観となり、その範囲内からいつはじかれるかという危機感をなぜか抱きつつ、屈辱にも思いつつ、「まだ範囲内にいる」と感じる瞬間にはほっとしたりもして。
今、50も迫ってきて、これからはその「範囲の外」なんだという自覚が湧いて、やっとだと。
やっと逃れられる。
勝手に値がつけられたり価値を下げられたりする世界から外れる。それは喜ばしいこと。
えっ、とっくに外れてるって?
・・そうやって年齢とか世間的な価値観に恥をかかされることもぐっと減っていくのだろう。
「若い」と言われた時代のほうがずっと、歳を重ねることに怯えていた。
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「芸能人に会わせてあげるから連絡先教えて」
TV関係者という60前後の男と知り合い、胡散臭いと思いつつ友人と私は待ち合わせ場所に行った。最近の話です。
現れた男性はいきなりセクハラ全開で、しかもTV局に入れなかった。
その人は出禁になってるのか…?
「気を取り直して食事でも行こう(裏話をそこでたっぷり話してあげる)」とのことだったけど、9割下ネタだった。
そのおじさんの風俗・性生活バナシ。
なぜこんな話を聞かされるのか…。
おそらく社外秘であろう裏話を聞かされるのも罪悪感が湧きそうだったので、まだよかったのかもしれない。
いや!全然よくないけど、フジのあの報告書のあとでこのおじさんは我が身を振り返らないんだろうかと、とにかく不思議だったですね。
初対面のおじさんから性交の話を聞かされる苦行。
その不快さを「おもしろい時間」に変換できるかも?なんて試みたりもする。
そうやって「乗り越える術」は身についてしまってて。
不快だったらそれを表現しないと!(表現しない側が悪い)みたいな論調もXで見られるけど、それってなかなかできることじゃない。
「場の和」をなんとか維持しつつ話を違う方へ持っていく。
そのやり方がしみついてるから、不快さを表現するってのはかなりハードルが高い。そこを責められても難しいとしか言えない。
同じように思う人は多いと思う。
おじさんからは、「誰でも良いから女性と繋がりたい」という飢えみたいなものを感じた。
私みたいな50間近の女でもつながろうとするのは、もうビョーキみたいでしたけどね。
まぁ、おじさんなりに「求めない方が失礼」というマナーを表面的に見せただけなのかも。
私の内面に関心を持つこともなく、ただ性の武勇伝を語っていた。
あの年代の男性は「性的に現役かどうか」がものすごい大事なことなのだろう。
そしてなぜか滲み出す、自分が女の価値を決める側・性的にジャッジする側という視点。
女=性的消費対象でしかない、と感じさせる語り。
人は・自分はどれくらいヤってるか?ばかり気にしてるような脳内(それを隠しもしない)
フジの報告書で明らかになった数々の訴えと、どこかつながる気がした。
そういう男性が世の価値を決めるような仕事につき、高給を得て社会的地位も高いという現実。
TVの世界では長らく、その世代の男性中心で番組が作られていた。
そりゃ性・エロ・若さが重視されるよね。
それを受け取っていた自分は、その価値観にすごく影響を受けてしまってた。
「そんなんじゃ選ばれないよ」みたいな脅しは亡霊のようにうごめいて、「選ばれない恐怖」にまんまと突き動かされる自分が思い返された。
私も性中心に据えられたコンテンツを好んで享受してた時代はあったけど。
でもなんか、男性的なノリをいかに楽しめるか?というムードに乗りたかっただけの気もする。
その価値観の範囲で自分はどう振る舞うべきか。
男性が思う魅力・男性が思うエロ、そこに当てはまりに行く度胸こそなかったけど、「色気ない自分ですみません」みたいに自分を下げたことは何度もある。
自分の周りにも、「性のことばっかり」という男性は多くいた。
それは若さゆえにしょうがないことと思ってたけど、「ばっかりじゃない男性」も確かにいたわけで。
表面に出すか・出さないか、しかも女性に向けて卑猥さを発するかどうかの差は大きいと思う。
胸の内にしまっておけない男性は病的で依存症的なものを帯びてると思いますよね。
どんだけ追求しても足りない・足りなくて足りなくて手当たり次第…みたいな人は病気じゃないでしょうか。
犯罪スレスレのところにいる、危ない人と思う。関わらない方が身のため。
そういう人は、そうならざるをえない何か「ストレスの素」に人間性を侵食されてるんじゃないか。
多忙や孤独、過去のトラウマからくる過剰な承認欲求等々・・
性やエロがこんなにも重要事項として位置づけられてきたのって、やっぱおかしい時代だったと思う。
性体験マウントみたいなのが若い女子にも広がったり、それがねじれて変態マウントみたいになってたり。その仕掛け人はあの時代のおじさんだったんじゃないのか?
あの盛り上がりの陰で被害者になったり屈辱を味わった人は相当多かったはずで、今やっとその陰に光が当てられて、陰の声を聞こうとする空気が盛り上がってきてる。
あの価値観に適応しようとしてきた自分を否定したい思いが今頃湧き上がるんですよね。
下ネタをうまくかわせる自分であろうとしたり。
年齢を重ねていく自分を自分から下げに行ったり。
そんな必要なかったのに!
という悔しさを携えて、しみついた価値観をいくらか脱ぎ捨てて生き直したい気持ち。
くだらないと心底思ってた世界を遠ざけることって、なんか勇気が必要だったじゃないですか。
50代を迎える今年からは、今の自分が感じる違和感や心地よさをもっと信じようと思って。