いつも見ている「5時に夢中!」
木曜日は、エロ曜日。
けど、生命を欲して何が悪い!と、志麻子さんと中瀬さんとともに開き直りたくなるから不思議。
けどね、夕刊ベスト8はエロ一色ではありません!
よいチョイスするのですね。
今日、この言葉が私をとらえました。
「自分は経験という牢屋に閉じ込められていた」
この一言だけで、かっ!と私の目は見開かれ、そしてこの言葉を大学の式辞で述べられたという、東京造形大学の諏訪学長のお言葉を調べてみたのでした。
もし私が新入生だったら、学長の言葉を受け止められていただろうか。
回り道の多い私は、きっと大学を卒業して15年ほどがたった「今」だからこそ感じとれたような気がする。
会社員として世に出て15年ほど。
多くの経験が私を強くした。豊かにした。
読むべき空気もそれなりに分かるようになったし、人間関係が何より大事なんだということを経験をもって痛感してきた。
けど、
私は時々誰のために考え、動いているのだろうと思う時がある。
人に迷惑をかけない人がいい人なのだろうか。
人に気を使わせない人が愛すべき人なのだろうか。
怒ってないし不機嫌でもないと常に安心させられる人が好かれる子なのだろうか。
通達一字一句ちゃんと読み込んで把握して、「なんだっけ?」とか決して言わない人が大人なのだろうか。
私はそういう人になりたくて、でもちっともなれなかった帰路には、嫌われたかなぁ…とか、何度終電で自分に嫌気が差しただろう。
自分の親切心が、優しさなのか経験由来なのかもよくわからない。
たぶん、後者だから人の反応が気になる。
そつなく、つつがなく、かけるべきタイミングでかけるべき言葉を発したい。
出る杭なんてとんでもない、すべてスマートにこなしたい。
私ってそうなれてる?そうなりたい!でもなれなかった・・・!
そんなことで自分の頭をぽかぽか両手げんこでたたいてるあの日の私に「およしよ・・・」と登場してやりたい。
人は人の数だけ思想や性格があるのに、どうして「普通」「常識」というラインがこんなにもぶっとく目の前に横たわってるように思えるのだろう。
何に囚われることなく存分に「自分」を謳歌したい、自由に。
でも「自由」が許されるのは、いつでもセンスのいい洋服を着て、何かを生み出すことができる美大生のような人だと思ってた。
先日、とある人からかけられた言葉。
「たとえ周りがみんな敵でも、自分が心から欲することに従え!」
こんな命令口調じゃないけども、それくらいインパクトのあった言葉。
普通、周りがみんな敵、つまり自分に反対してきたら、「あ、やっぱりそだよね…」とスタンダードにあっさり乗っかってしまうことが正しいと思ってしまうし、そのほうが人間関係もうまくいくと思ってた。
いつでも頼れるジャッジメントは周りで、自分の気持ちすらも多数決で決めてしまう。
自分の心に、深く深く問い合わせることなんて、これまでほとんどしてこなかったかもしれない。
かろうじて「直観」というものを信じてみることはあったとしても。
でも、その直観って実は素晴らしいもので、理屈じゃなく惹かれるものに手を伸ばすこと。
それには何度も素敵な景色を見せてもらってきた。
なのに、時々「世間一般」とか「普通」が、それらを「たんなる夢」と一蹴しようとしてくる。
いやいや、何かが私を呼んでるし!と時には勢いで突っ走っれる時もあるんだけど、「で、あれはどうなったの?」なんて失笑されたりした日には、「あの時は現実から浮遊してました~」なんて過去にして周りを笑わせて終わらせてた。
自分のくりえいしょんなんて、信じることも愛でることもできないまま。
魂が求める直観を、それすら自分は否定してしまうんだ。
「だって今までこうだった」「みんなそうしてきたよ」という経験は、経験でしかない。
経験の中で生きることはとても確かだし安心する。わかる。私は本来保守的な人間。
けど・・・ああ…自分の心や世界は自由でありたい。
じゃあその自由って、つまりはどういうこと?
・・・まだそれがよくわからないし、どこか恐れてもいるんだけど、いろいろ「学ぶ」ことで自分の軸がすくっ!と形成されることを楽しもう、2013年。
「たとえドン・キホーテのようであっても、私は私たちの小さな創造行為が、必ず世界とつながっていると確信したいと思います。」(by 諏訪学長)