「A2」

この間の日曜日に見てきた映画は、森達也監督2001年の映画「A2」だったのでした。

タロットで「日曜日!」って後押しがあったものの、チケットを確実に取るまでは不安。
直前まで「FAKE」を上映してるので、そこで見てたお客さんが連続2本立てでA2を見るってなったら、狭き門よねぇと。

けど、客席はガラガラ。

まぁね、日曜の23時過ぎまでの映画って次の日のことも考えちゃうだろうけどさ、でもさ…。
「FAKE」が見たい人は、何を見たいのか、森監督の映画を見たいんじゃないのかな。
それとも佐村河内氏の「ホントはどうなの?」への興味・好奇心だったのかな。
そんなことは人の勝手だけどさ…。

「FAKE」と「A2」両方見ると、A2のほうが圧倒的に青春物語でドキュメンタリーで感動的で政治的と思いました。
でもジャーナリズム色とか政治色が漂い始めると、とたんに映画の「娯楽性」が危ぶまれる感じってあるのかもしれないですね。
だからこそ見に行くという人もいるけども、「あ、そういうのパス」って人も多い。

でもその大きな流れこそがメジャーなマスコミにとって「成功」ということなのだろうし、大きな政治的勢力・国家組織からすると、「よかよか」ということなんだろうな。
こういう映画がマイナーである社会、それでいいんだと、ふんぞり返りながらもある種の敏感さでもって、マイナージャーナリズムの「芽」を摘もうとする窮屈な監視感は、私にだって感じられてきたここ数年、大震災後特に。

「A2」をこれから見るって人はたぶん少ないだろうから、わりと内容に突っ込んで感想を書いてみます。

この映画のタイトルですが、ウィキペディアによると「タイトルAは荒木(Araki)のA、オウム(Aum)のAに由来するとされる」とのことでした。
麻原のAでもあるのかな?
現在の教団名アレフ(Aleph)も込みかしら。
「A2」だと、信者の一人「秋山氏」のAとも言われているそうです。

この秋山氏はじめ、森監督が迫った信者たちの姿を見ると、やっぱり「青春物語」って、胸が詰まってくるほど。

当たり前だけど、行くところ行くところ、その地域の住民から強烈な「受け入れ反対」「すぐさま立ち退きせよ!」との反対を受ける。
それは当然なのだと思う。
その怖さは拭えないし、「でもさ」って平等主義みたいな顔なんて、その場にいたらきっとつくろえない。

どこの町の人も、施設の隣に監視テントとかプレハブ小屋を建てて、住民が交代で教団施設を見張る。
毎日毎日。

だけど、「奇跡的な地域」があった。

教団施設の塀の内側から、秋山氏はじめ、他の若い信者がひょっこり顔を出すと、当番の住民が「よぉ~」と近寄ってくる。
森監督が撮影に入った頃から、もうそうだったのかな?
すでに地域住民との「交流」が出来上がってたようだった!

なんなら当番のおっちゃんたちは親しげに教団施設の塀に腕をかけて、信者を息子みたいに可愛がってる!

住民「心入れ替えて脱会してくれたらよぉ、俺たちはいつだって受け入れるもんなぁ」
って、この光景はなんだ!?

住民「その耳こげてんの、ピアスかよ~」
秋山氏「えへへ…ヘッドギアの電流が強すぎて焦げちゃって…」

ヘッドギアって…!!

あれですよ、さんざんTVで流されてた、あの電流いっぱいぶら下がってる、あの怪しげなやつですよ。

住民「学校行ってないんだべ?これとこれ、貸してやっから勉強してよ」
秋山氏「(密教テキストみたいのをめくりながら…)あとこの数学のプリントは…」
住民「これはだめだって!恥ずかしっから!これ映すなよ、これはだーめだ」

一体その数学のプリントってのはなんだったのか、おそらくおっちゃんが彼のために自分で作った問題集なのか、なんなのか…。
でも「彼のために心を込めた」という何かを渡してるはずで。
密教テキストが混じってたのは、せめて改宗してほしいという願いの表れ?

カメラは他の地域施設の取材にどんどん移っていくんだけど、どこでも「出ていけ!の声は激しい。
だから、たまにこの地域に戻ってくると、見てるこっちもほっとする。

でも冒頭は緊張感漂うものでした。

森監督が信者に地下鉄サリン事件のことについての見解を聞くところとか。
彼らの答えをどういうふうに受け取るか、そこを見つめるのは非常に勇気のいることです。

「私たちは誰のことも変えることができない」
それを改めて突きつけられた気がした。

特に難しいのは、「相手は完全におかしい」とこっちが思ってる場合。

この国の大多数からしたら、あの集団は「おかしい」。
でもこの集団からしたら、こっちこそ「おかしい」。

そう思っている以上はわかり合う時代なんてやってこない。
でも、おかしいVSおかしいで、ずーっとこの先行ったらば亀裂は深まる一方で…。

それが「奇跡の地域」では見事な理想像を見せてくれた。
「監視小屋」を撤去することに決めた日。
もう監視の必要がないと判断してのこと。
この勇気がすごい、この地域。
マスコミだってこの融和を知ってたはず。
だけど報道しない。

そして教団施設がそこから転居するという、いわば「最後の交流の日」。
住民たちはみんな名残惜しそう。
お互いに名前を呼び合ってる。

秋山氏「最初、◯◯さんとか怖かったもんなぁ」
◯◯さん「そりゃそうだよ、おめぇ、最初はよぉ」
住民「あれ、あの本くれよ」
秋山氏「あれ?あげてなかったっけ?持ってくるね」

…と、ここで秋山氏が持ってきたがの麻原氏が表紙の教団内月刊誌みたいなやつ。

住民「これじゃねぇよ」
秋山氏「違った?」
住民「これ前にもらったもん」
おばちゃん「あたし欲しい」

ここを去る信者よりずっとずっと、地域住民の方が別れがたいという寂しさをあふれさせてた。
私はここで涙してしまったんだけど、その前のシーンで涙をこらえていたから。

秋山氏の高校時代の部活仲間が新聞社に就職して、記者として友達として、両方の意味で施設を訪れたところ。
このお友達がまた優しい方で…!

友達「みんな心配してるよぉ…」
秋山氏「みんなって誰?」
友達「親御さんのとこ帰ってる?」
秋山氏「帰るわけないじゃん、出家したんだもん」
「でも、前にこの写真を親に送ったよ」
(麻原氏を囲んで…たっけな?道場での集合写真)

友達「…これ、かえって心配するんじゃないかな…」
秋山氏「そぉ?」

このズレは、もう完全に彼は現世の人ではないことを物語っていて、それを突きつけられたお友達の表情はとても切なかった。
「連れ戻したい」
「変えることはできない」
お友達はお友達だからこそ諦められない部分もあるのだろうし、お友達だからこそ「わかったよ」と受け入れてあげたい部分もきっとある。
でも彼は記事を書くジャーナリストでもあって。

友達「わかんないよ、どうしてそんな友達も親も捨てて…」
秋山氏「僕だってわかんないよ、どうしてメディアはこんなに嘘をついて、どうしてそんなところで君が働いてるのか」

この世の多くの人は、嘘まみれでもなんでも「大多数」を選ぶ。
信者たちはきっと、流されるような嘘の世界に住むことなんてまっぴらで、自分が確かに「信じた」ものを追求する純粋さが、誰からも溢れていた。
そんな勇気は私にはないし、そんな人も知らない。
ホームレスのおじさん見て、「ああ、社会を捨てたのだな…」と、その勇気を称えたくなることはあるけど。

麻原氏の三女アーチャリーは、1人で歩いてたら素朴な少女。
(1人で歩かすということはありえないのかもしれないけど)

森監督「学校行きたい?」
ア「行きたいよぉ!」
森監督「一番好きな呼ばれ方は何?」
ア「りか(麗華)」「お父さんがつけてくれた名前だよ」

直接手を下してない信者・幹部に罪がないとは、この教団には通用しないことなのかもしれない。
でも「じゃあ本当に悪いのは?」って、いちいちそこを考えて突き詰めて生活するほど、現世の我々は暇でもない。
でももしかすると、その暇は「奪われてる」のかもしれないな。
TVの中のどうでもいい娯楽に、乱立する商業施設のお祭り騒ぎに。

森監督が映し出すものは、いつでもとにかくコミカルです。

横浜に教団が移ってきたとき、しかも上祐氏が刑期を終えてそこに戻ってくるって。
横浜の右翼団体が「オウムと話をさせろ!」と、施設を取り囲んで右翼を阻止する警官との攻防のどこに普通コミカルがあると思う?
右翼団体の「ドス」から漏れるコミカルさに、彼らは気づいてないかもなぁ~。

そして、その大騒ぎの攻防を撮っている森監督のカメラに映り込むのが、酔っ払った関係ないおやじ。
「お父さん、みんな真剣なんだよ。酔っ払ってんのお父さんだけだよ、しっかりして!」
って、ぐでんぐでんで絡むおやじを諭す警官。

右翼のコワモテおじさんに「森さぁ~ん♪」って呼びかけられて、監督が街宣車の助手席に乗せてもらうシーンには笑いました。
右翼団体も森さんを通して見たらば、そこにも真っ当な筋と、当たり前だけど「人の心」あることがうかがえる。
街宣車を見る目が変わりましたよ!この映画で!

警察という組織のいわば「警察発表」という記事は、マスコミが簡単に修正できないほどの威力がどうもあるらしく…。
「”信者を監禁した”として逮捕されたのは私です。自殺未遂の信者を止めただけなのに」とか、
「”衰弱した信者を保護”と報じられて保護されたのは私です。元気だったのに…」とかとか。
どれも事実誤認だったらしく。

ま、私も信者をすんなり信じちゃうわけにもいかないんだろうけど、映画を見て、滲み出てくる彼らの人柄を感じてしまうと、「どっちを信じる?」ということが明らかになってしまう。

警察が一番の悪か?それともマスコミか?
いやいや、”殺めること”それ以上の悪はない?

教団には、もともと精神が病んでる人もそれなりに入会してくるという。
だけど「基本受け入れる。宗教が受け入れなかったら、彼らはどこ行くの?」という姿勢を目の当たりにすると、彼らが純粋に信じてる・目指してる社会があるんだなということがわかる。

「何を信じる?」

森監督はいつもここがテーマなのかな。

「信じすぎてる」
という状態は、でも人を殺めたり苦しめたりするほどの不幸も生み出す。
「あれもあって、これもあって…」
その中でどの生き方を選ぶ?
みんながみんな、広大な選択肢、誰かのチョイスを「それもありだね!」って分かり合えたらいいのだろうけど。

信者の修行風景は、異様といえば異様です。
「塩吐き」
という塩水で胃の中のものを出して洗浄するシーンでは、慌ててその気配を察知して目と耳を塞ぎました。
そしてヘッドギアを付けて、尊師の声が流れる道場での瞑想。
信者にとって何より辛いのは、性欲と戦うことらしい。
「迫害」とかって言うのかと思ったら…。

どんな宗教でも、無宗教からしたら異様に映ります。
でもイスラム教徒が「お祈りの時間だから」と中座しても、誰も責めたりはしない。
「あの人たちはそうでしたね」ってすんなり受け入れられる。
そういう理想を、信者は描いているのかもしれない。

森監督が信者の食事を口にして「現世ではこれはまずい」と言ってたけど(笑)、彼らの味覚すら私たちとかけ離れていることが浮き彫りにされた。
そんなまっすぐな彼らがどこに向かうのか、向かう恐れがあるのか。
森監督は、半ば彼らの仲間みたいに懐に入り込んで、でも最後の最後に荒木代表に突きつける。

「思考停止」
森監督がずっと警鐘を鳴らし続けていること。
マスコミの報道を信じ込む私たちに。
「善と悪」二極しかないみたいに報道するマスコミに。
「悪は排除すべき」という、国家レベルの雪だるま式に膨らむ大きなかたまりに。

荒木代表も、最後は絶望気味の思考停止風に見えた。
教団は膨大な額の賠償金支払いを負っている。
社会の敵とみなされ続けるしかないような未来。
「もう誰にもわかってもらえなくても…」
でもそこで立ち止まることは危険でもあるんだよと、森監督は揺さぶってたように見えたのです。

私もなぁ…あの地域のおっちゃんみたいな誰かに「占いなんてやめれって、やめたら神輿担がせてやっから!」ってもし言われたとして…。
でも、やめれないよ。
私にも信じてる世界はある。
おっちゃん、そうじゃないんだよ、占いってそうじゃなくってさ…。

でも溝は溝のままで、築ける厚い関係があるんだということを感じられたのは、本当に良かったです。
「FAKE」で男がバカに見えるって感想書いたけど(笑)、おバカだからこそどうしようもなく愛が湧くっていう、そこがね~。
みんなみんな、与えられた役割や職務にただひたすら忠実。
だからこそ生まれる壁。

その点、女は「強大組織」というしがらみから男よりは自由なのかもね。
女性信者が男性信者に「だっていろんな立場があるじゃない」みたいなこと諭してるシーンがあった。
アーチャリーのお守り?みたいな女性が1人になったとき、森監督に「サリン事件のことどう思う?」って聞かれて、アーチャリーが「なになに?」って寄ってきて。
「オトナの話、ふふ…」っていうそのお姉さん的な母性がまぶしかった。
女は「信じる」にプラスして「守る」という役割に忠実なんだよなぁ。
って、また女性賛歌っぽくなってしまったけど。

バカとかなんだとかいえば、やっぱりあんな事件起こすなんて、愚かの極みです。
だからこそ簡単に口に出せない。
人と本質のところを議論させないほどの凶悪な事件と思います。
でも、あぁ揺れる。この映画の感想書くのに、ぐらぐらと。
地域住民の方も、「気持ちが揺れるんだ」「自分でもこんな気持ちわかんねぇ」って何人かが言ってた。
「揺れ」が、今の時代ではまだまともな状態なのかもしれないです。
自分をまっすぐ一本と思わない方が。

 

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