引っ越しの日が迫ってます。
部屋の中はいよいよ段ボールだらけ。
なのに本やらCDやらまた買ってしまった…!
本屋でたまたま見つけて、「紅い花」も掲載されてることを知って購入しました。
「紅い花」って、昔NHKでドラマが放送されてたのですよね。
本放送は1976年なので、私が見たのは再放送。
録画もして、今でも実家のどこかにあるはず。
保存版にしたのは、つげ義春作品と知っていたからだろうかな。
出勤の地下鉄内で読むためにカバーを外したら、カバーに隠れてた1ページ目が「紅い花」のこの子だった!
キクチサヨコ
かぁいぃ~
「夢と旅の世界」の表紙は、代表作「ねじ式」の1コマ目。
メメクラゲに腕を噛まれたという…。
この物語は、つげ義春さんの見た夢のお話だったとは知りませんでした。
つげ義春さんは、そのほかにも見た夢をマンガのストーリーにされることが多かったようですね。
なんの脈絡もなく不気味な情景や台詞が出てくるゆえんが少しだけわかった気がしました。
そして圧倒的なエロ。
結局、地下鉄で読めたもんじゃありませんでした…。
どの少年も、どの中年も、どのおばさんもお婆さんも、登場したばかりのタッチはひどく醜く感じるんだけど、読み進めていくうちに彼らの顔が近隣の人みたいに当たり前に感じられてくるのです。
そして彼らの肉付きとか、「コマ」から醸し出される不気味さからは、これから起こるいろんな気配が伝わってきて、男と女がいれば性が噴出するのだという当たり前のような展開と、でも、リアルなのに私など知りようもない男女の誘い合いの未知感に、こえぇ~よ~と怯えながらもゾクゾクさせられます。
この本の中でつげ義春さんは、ロングインタビューに応じられています。
リアリティをとことん追求された方。
「あるがまま」を。
その「あるがまま」を説明されるのに仏教の考えを述べられるつげさん。
「自己を忘れ無我になる。」
「夢は、眠ることによって目覚めているときの自己が消えて無我の状態」なのだと。
つげ義春さんは、1987年つげさん50歳のときから新作を出されていません。
「社会的な枠組みから外れた乞食のように、やがては自己滅却して神の国へ…」という生き方に憧れるというつげさん。
修道院の世界に憧れ、そして奥様の死でうつ病になり、「人間の精神は薬で治せるものではない」というところにたどりつくつげさん。
旅をたくさんされて、しかも秘境のような温泉ばかり。
いまはどの温泉もレジャー化していることで、ますます行く場所がないように思われているようで。
「朽ち果てる」ような生き方を望まれているのではないかと、山下さんはおっしゃる。
2回家出をしたことがあるつげさんが語られる「蒸発」の世界に、吸い込まれそうだった。
誰しもが一度は憧れる行為じゃないかな、蒸発。
誰も知らないところに行って、自分の過去を消すように生きて・・。
過去を消す。
それができたらどんなにいいだろうかと思ったことは何度かあります。
生き直したい、生き直したい。
どんなときに思ったっけな。
やっぱり仕事関係で疲れてたときかな。
何かに執着がなくなったら、「あの人は頭がおかしくなったらしい」そう思われればいろんなことから楽に逃げられると、いろいろ画策するかもしれない。
だけど、それを自分に許さないのは、社会性なのかな、それとも良心みたいな部分か。
「堕ちたい」「棄てたい」
読むほどに、じわじわ・ちょびっと浮かんできたりする。
だけどそれは、顕在意識だか社会性だかが、普段の生きやすさのために必死で無意識化に押し込んで、絶対出てこないように押し込んで。
でも「夢」は、それが衝撃的に謎めきながら展開する場所!
それを作品にするなんて、素敵だなぁ…。
つげ作品にただ惹かれるってだけで、全然多くを知らないです。
この本に描かれてる物語や一部の挿話だけ読んでも、何かが伝わってくるわけではない。
伝わってこないというのは、つげ義春さんが別に何も訴えようとしてないからだと思う。
伝わってこないのに感動するのです。
誰かと論じようという気にもならなくて、そして何度も同じページを読み返したくなる。
TVも政治も雑誌もデパートも何もかもが嘘で、リアルはここにしかない。と、思いたいのかも。
明日は牡牛座で新月です。(13:13)
すぐボイドタイムに入っちゃうけど。
牡牛座とは「リアル」だと、この新月について書いてらっしゃる占い師さんのコラムを何個か読みました。
私たちは「月」なんだな。きっと。
なんの論点からってわけじゃなく、なんとなく今思った。
12ページをうつろってる。
せっかくだからこの新月期は、「わたしのリアル」を感じてみようかな。
明日の夜に月が双子座に入ったら
「情報!情報!」って、リアルも虚構もごったまぜの世界を明るく軽く楽しんだりするのだろうから…。