メス猫を無事見送ることができました。
死に目には会えなかった。
仕事に行かなきゃならなかった。
猫は私が去ったあと、昼寝中の母の背後で息を引き取ったようでした。
そういえば誰の死に目にも立ち会ったことないです。
祖父母も父も、歴代猫も小3ごろのハムスターでさえも。
今回も死の瞬間を見届けることが恐怖で、それを万物がよくわかってる気がした。計らい?
メス猫は口が開いてたので、穏やかな最期…とはいかなかったのかも。
最期の瞬間までなでてやりたかったけど「もう頑張らなくていいよ」と言われた気もした。
表向き「飼っていた」ことになるけども、すべてが「私のため」のあれこれにも思える。
私が猫に会いに行っているようで、実は猫の信号に操られてた…ということあるかもしれない。
「なでに来い」という信号。
そんで私の心をぴったり埋めてくれましたよ。
猫といるだけで「幸せ」って思うんだもんな。
私の生活にだって幸せ要素は必須で、猫が進んでもたらしてくれたようだった。
今の私は1年前とかこれまでよりも、幸せを正直に追い求めるようになってます。
まず「頑張りすぎない」ということ。
「頑張らないと幸せになれない」と、なんかずーっと思ってましたね。
幸せは頑張りの先にあるもんだぞと自分を説教してたみたいな。
頑張り足りねーぞ!はい!みたいな部活にずっと所属してましたよね。頑張り部?
仕事を探すことも習慣みたいになっちゃって、探しては「ねぇな…」とため息をつく日々。
派遣とか正社員情報サイトに登録もしてみたけど、「いかにこれまで頑張ってきたか?」の履歴入力がとにかく苦痛。それ読んで「ふむふむ、あなたの頑張りを我が社にください」とかってオファーを期待したりするわけ?
何も反応なかったら「私の頑張りはだめだったか…」とダイレクトに思わされる。
ク○だと思う。こうじゃなきゃ正社員や高時給にありつけないよという上から目線のこの社会の闇。
だったら「経験不問・年齢不問・服装自由!」のバイトの方が全然まし。
なんだけど時給1300円とかじゃ生活きついね…今それでも良い方か?
仕事についても、そんなに頑張ることはなかったと気づいた。
もっと働かないと苦しいってわけでもない。ただ頑張りたかっただけ。
頑張り部の目的は頑張りだから、その目的を果たしたいという真面目さの惰性。
そうすれば自分の何かを安心させられるし、頑張ってないと責めが押し寄せてくるし。
ってか頑張り教の教祖、誰よ??
最近「もう頑張れねぇな」ってことが急に増えました。
頑張れないってことは、自分に正直になってることとも思う。
頑張るのは、誰かの死や病気、お葬式や緊急事態とか、そんなときくらいでいいはず。
そんな事態のとき、いつだって「よっしゃ!」と自然にスイッチ入ってた。どんなに疲れててもこなせてきた奇跡。
真面目な私は「そんな事態」の予行演習も頑張ってきましたね。ひとり自衛隊。
いつ何が起きてもいいように、体は休めてても脳内は対処イメトレにいそしむ。そりゃ疲れるわな。
いい子でいなきゃ愛されなかったっていう環境でもなかったんですよ。親にそんなに怒られないし、勝手に頑張ってた。
ただ不安だったんだと思う。
「自分ひとりで対処できなきゃならないあれこれ」がどんどん肥大していった。
世の中も「頑張り」の意識の転換が起こってる気がします。
映画制作現場での理不尽な要求とか性被害とかに、「嫌だけど頑張る」風潮がこれまであったとしても、「もう嫌だ!無理・ありえない!」という声・告発がどんどん出てきてる。
無理して頑張って、もっと頑張らないとあげないよ…と垂らされる糸。負傷必至の有刺鉄線みたいな糸。
「嫌だ!無理!」って相当正直な声と思う。無意識の真っ当な訴え。
なのにそれを抑え込むのが美徳みたいな社会で育ってきた。
なんで嫌?どうしたの?って誰かに聞いて欲しいのに、周囲見回してもみんな目を逸らす社会で生きなきゃならない。そんな人はまだ多いだろうし、そんな体験、誰もが一度はしてるのでは。
私の知り合いも頑張る人だけど、最近髪が乱れてるのをよく見る。明らかに頑張りすぎてる。
何か事情があるかもだけど、「頑張りすぎな自分の一部」が彼女に映し出されてるようにも思った。
私と彼女の共通点は非正規。「頑張り」がどうしてもつきまとうんだこれが。
頑張りはある程度は楽しい。ほかのことあんま考えなくていいからさ。
でも嫌悪感とか「無理!」って感覚、大事なサインと思う。これからどんどん、世の中的にも。