私は太陽蟹座なので、「水星座の人」という意識はそれなりにある。
でも土星も蟹座だからか、「蟹っぽさ・水っぽさを抑制せねばならない」みたいな強い思いも同時に持っている。
甘えたりベタベタするのを自分に禁じるような。
だから人から見たときににじむ私らしさっては、さほど水っぽくもないんじゃないか。
私自身、太陽より月・水星・金星・火星が水星座の相手に、より「水っぽ!」と感じるんですよね。
水星座持ち同士の間には、言葉にしなくても通じ合えるみたいなテレパシーがあるように思えるのですが、わかりますかね。
「通じてるよ…」という信号を送り合う秘密の感じというか。
水星座の太陽ってだけだと、そこまで水っぽくなかったりする。私の体感として。
それなりに、っぽさはにじむわけだけど、太陽は「べき」が水星座的というか。
「職場の仲間とは家族のように仲良くすべき」
「友達とは頻繁に会うべき・助け合うべき」
「恋人とはいつも一緒にいるもの」
こういう「べき」を漠然とまとっているものの、実は裏腹な思いが胸の内にあるような人。
特に太陽と月水金火星が矛盾する場合ですね。
例えば太陽土星座の人は「きちんとすべき」みたいな雰囲気をわりとまとっているものの、月金などが水星座だと、部屋では甘々な服とか食生活、言動とか。
甘々ってのは、ルーズ・ぶりっ子・軟体動物系、あと酒や恋愛に飲まれたり。
あと月金などが蟹座だと、表向きはどうであれプライベートな空間だと「家族のために・近しい人のために」という家庭的な愛情表現が発動されやすいと思う。
私の兄が太陽獅子で月蟹ですが、家族の行事や誕生日を大切にするタイプなんだと、互いに中年になってわかりましたね。
兄も独身だからかもだけど。
月金などが魚座だと、ルーズさとぶりっ子が目立つような。
私の父が月魚でしたが、ルーズなのに人のお世話に乗っかるのがうまかった。
周りが「あーあーほらもう」とやってあげたくなってしまう何かをくすぐる。
でも父の金星火星は双子座なので(風星座)、尽くされ続けるのは苦手そうでした。
「もうほっとけ!」と怒ったり。
月金などが蠍だと、片栗粉で包む感じがありませんかね。
「私、片栗粉入れない派なんですけど?」と、抵抗を見せるのが私だったとして。
「まあまあ、いいから委ねてみなさいよ」と強引に人を飲み込み、「あ、うまみ…」と人を新境地にいざなう不思議な引力があると思う。
私は月獅子だからか蠍っぽさに最初抵抗しがちですが、「委ねる」という沼に思い切ってダイブしてみたら「結果よかった・安心感だった」という体験は割とある。
でも怖い!蠍の沼は私にとって怖いんですよね。
結果よかったとしても、どこに連れて行かれるかわからないのは苦手。
蠍持ちはミステリーツアーコンダクターみたいな一面がある人と思う。
魚座も謎めいた世界にいざなう人ではあるけど、期待させといて何もなかった、玉手箱を開けた浦島太郎の感慨を抱かせる人なんじゃないかと。
あの人に期待して尽くした分、かなり老化したよね、みたいな。
「何かありそう」という思わせぶり度がすごいのに、罪なほど「なんもなかった(何だったんだ)」という空虚感と甘さの余韻を残す人。
でも魚座持ちとの時間って刹那でもなぜか満たされるんですよね・・
水星座持ちは恋愛だと「付き合うと思ってたのに!」というマジックを見せる人とも思う。
付き合ったら夢みたいな交際になるかと思ったのに!
そう期待してた間が結局一番幸せだったみたいな。
蟹座持ちの男性も叶わぬ期待をちらつかせがちですね。
仕事頑張る人なのに、恋愛とか家庭内とか気持ちの交錯するところで急にルーズになる。
「自分、ここで線引いときますんで」とかやるより、ズルズルしたほうが楽しいもんな。
そんで、水星座同士で謎に通じ合っておきながら、ぎりぎりのとこで「じゃあ、ここまで」という線引き・突き放し。
男性だけじゃなく、女性も現実に戻るのが早いです。
蟹・蠍・魚の支配星といえば、月・冥王星・海王星ですがね。
この感じを現実世界にメインで持ち込むわけにいかないと、自分の意識はわかってるんでしょうね。
「この世で生きる」という現実を受け入れないと社会的に排除されかねない。
それをわかってるというのは教育のおかげなのか、生存本能なのか。
でも溺れる人・戻れなくなる人もいる。
というか、水星座持ちは人生のうちに誰しも溺れる体験をするのでは?
執着的な恋愛や人間関係、酒、ギャンブル、借金、スピリチュアルなどの依存的な体験。
それこそが水星座持ち。
そうじゃない人は、自分の周りの人に異様に執着されたりとか。
自分の認めたくない内側を相手に投影しちゃうんでしょうか。
ちなみにうちの水星座持ちの家族は過去、ストーカーをされた体験がありました。
私自身はありとあらゆるスピリチュアルとか前世的なものにどっぷりハマってた時期はありましたね。それに結構お金も費やしたし。
それらの時期は無駄だったかというと、社会的には無駄かもしれないけど、内側には何がしかが形成されたような感覚はある。自分にしかわからない満足感もありつつ、没頭していた時間に対する恥みたいな痛みもずっと抱えるんだと思う。
「通じ合ってるでしょう、私たちは」
それを感覚レベルで浮遊させてる分にはよくても、形にしようとすると幻みたいに消えたり、泥仕合が待ってたり。
誰にもわかってもらえないレベルでその感覚を大事にし続けられればいいだろうけど、なかなかできることじゃない。
自分は異常者じゃないかという現実意識はすぐなだれ込んできますからね。
異常者じゃない!と、さっさと風呂から上がって部屋の掃除をしたりする。
ゴミだと思って捨てた中にどんだけきらめきがあっただろう…と思いつつ、捨てたものを振り返らない自分も健全で好きと思う。健全でいたい。