「悲しみよこんにちは」といえばフランソワーズ・サガンの小説。
斉藤由貴のシングル。
安全地帯にも何か…と思ったら、それは「悲しみにさよなら」でした。
「悲しみよこんにちは」、本当素敵なタイトル。
ここのところ、つらい・悲しいが続いた日々。
そのひとつ、実家のオス猫が死んでしまいました。
ほか、いろいろ思うところあって眠れない日が続いたのですが、「眠れない」って心に相当よくないのですね。
今朝はやっとぐっすり眠れました。
もうやせ細っていた猫。
猫が逝ってしまうのは、こんな日なんじゃないかと思って実家に帰ったら、家に着いたときにはすでに死んでいました。
母が台所で食事支度中にひとりで息を引き取ったのかと思うと、そのショックは時間を経るごとに押し寄せてくる。
でもメス猫が第一発見者だったんじゃないかとも思う。
葬儀屋は、なんとなく牧歌的なところをネットで選んで決めた。
後日届けてくれたお骨と一緒に写真や手紙、しっぽの毛までかわいらしくカゴに入れてくれたみたい。
あのふわふわした毛は死後硬直してもふわふわだったから、燃やされてしまうのは残念…そう思ってただけに、自慢のしっぽが一部でも残ってくれたのは救い。
お骨の他に写真やお手紙もつけてくれました。
人生のどこかで明らかに下り坂モードになる、そんなふうに感じることが増えます。
眼に映るものみんな枯れていくというか、それはしょうがないこと。
家も庭も本もみんな古くなっていく。
それらをこれから片づけるばっかりの人生の始まりとも言える。
自分も衰えていくのにね。
それこそお金があれば、なんでもお金で解決できるという心身の負担軽減。
でもそういうののために今あくせく働くというので本当にいいのかな。
ずーっとこのあたりの思いを抱えながら、とりあえず生きてきましたという生き方で本当にしょうがないのかね。
オス猫は、お盆休みのころから食欲がなくなり、どんどんやせ細っていき、1日・毎時間「まだ息してる!」「今日は水飲んでる!」と確認してはほっとする8月後半。
でも「どんどん」だんだん」というゆっくりした時間の経過は、本当に穏やかな死への準備。
おかげで悲しみもいくらか和らいだように思います。
死を受け入れる準備。
それがかなわない別れも誰かにはあるだろうけど、長い準備も精神的に疲弊してくるから、どっちもそれなりの幸不幸はあるのかな。
そういう振幅を体験して人はたくましくなってね…。
グッバイ!立派な尻尾の君…!