「コタキ兄弟と四苦八苦」を見てます。
兄・古舘寛治さん、弟・滝藤賢一さんの無職兄弟の物語。
脚本は野木亜紀子さん。
「古滝」って古舘さんと滝藤さんから1文字取ったのですね。
今気づきました。
物語は主に喫茶店で繰り広げられ、そこの看板娘が芳根京子さん演じるさっちゃん。
大抵さっちゃんは天真爛漫なのですが、この間は深刻な独白がありました。
社会性も家族も、もういいじゃん、決別したってさ。
そうささやくのが滝藤さん演じる二路。
二路の視点は今の時代にすごく大切というのはよくわかる。
無職だし家庭に戻らない一見ダメダメだけど真理を持ってる二路。
自分の方が社会的にまともと思ってる狭量な長男の一路。
2人のゆるいレンタルおじさん稼業から浮かび上がるものはいつも実体のない何か。
でもひとまずの着地点。このひとまずのところでずっと生きてくんだな、俺たちは。という落語の世界のようなドラマといえるのかな。
二路とさっちゃんは、この「ゆるいけど真理も知ってる」というあたりでとても気が合うのだけど、まさか本当にきょうだいだったとはね。(さっちゃんは知らない)
さっちゃんが妹と判明してからは、このドラマのムードががらっと変わった気がしました。
さっちゃんはレズビアンなのですね。
男性のセクシュアリティの話は数年前から立て続いてドラマ化されるようになりました。
でも女性のセクシュアリティのドラマってないなと思ってたのです。
あったとしてもなんかエキセントリックに描かれてる気がして、やっぱ難しいのかなと。
でも芳根京子さん演じるさっちゃんの恋にとても胸打たれて…。
恋愛の一般イメージとして、「自立してない(ように見せる)女性とそれを支える(頼もしいような)男性カップル」こそあるべき姿みたいなのがもうずっとある気がする。
でもその像は確実に崩れてきてて、真に自立した女性がたくさん増えた。
それでも蔓延するのは「愛され仕草」とか、「ゆるふわこそ選ばれる女」「男は歩道側を歩いてこそ」とかのキャッチコピーだか洗脳ワードだか。
街ゆく男性女性がどれだけ賢くて強くて弱いか私は知らない。
それでもまだ、男性のあとを「つつつーっ」と小鳥のような小股で走っては追いつき、遅れては走る女子の多さ。
待ってやれよ!という怒りはとうになく、女性はそうして可愛らしさ・弱さを自作自演してるのか…とやっと気付いた。
エスカレーターでは男性が女性を愛おしく見下ろす。
そりゃ女が一段下がったとこから上目遣いで見上げるから…。
だけどそれも恋愛初期でしょ。
赤ちゃん抱いてる女性が男性の1段下から上目遣いで夫を見るとか、ない気がする。
パートナー間に上・下って本来は必要ないはずなのに、入り口がそんな感じじゃなきゃ恋愛に突入できないみたいな流れが醸し出すのは不思議に狭き門の難関コース。
これじゃ女子力どんなに高めたってさ…。
同性カップルのテーマがここのとことてもまぶしく見えるのは、2人とも対等だからなのかな。
そして「こうじゃなきゃ選ばれない」というところと無縁に思える。
それは一見、友達になるのに理由なんかないような「あなたが好き」という延長の同性愛。
実際はわかりません。
モテるためのテクや服装はそれなりにどの世界にもあると思うけど、一般的な男性・女性という「役割」から解放されてるように見えて。
もちろんそれぞれの性の苦悩はわからない。
でも、「ありのままの私」で選ばれないのなら恋愛も結婚もいいや…ってなる人は、これから増えていく一方に思える。
「あたしたちもう別れたじゃん」と、喫茶店を訪れたミチルにさっちゃんは言った。
「ミチルのこと嫌いだから!」と言い放ったさっちゃんの気持ちはきっと嘘で、「私とあの子は全然違うんです」と、さっちゃんは続ける。
ミチルはお金持ちの娘でお金に困ることもバイト経験もない。
一見何不自由ない生活のはずなのに、自分たちのセクシュアリティを悲観して「どうして私たちは祝福されないんだろう」と。
さっちゃんはそこに腹を立てたんだと思う。
自分のマイノリティを努めて明るく乗り越えてきたさっちゃん。
ミチルが親に交際反対されてそんな悲観になるのなら、これから何を一緒に乗り越えられる?(もう何も乗り越えられないじゃん)と。
同性間と異性間で、目の前の相手とのひたむきさやナチュラルさがどうしても大きく隔たってるように思えて。
結婚したい・恋愛したい・運命の人。
仕事より自己実現より何よりこれを一番の夢みたいに掲げてきたことはすべて幻?
異性に選ばれたいと思うことにがんじがらめだった何かが、性を超えた人間愛の前じゃもうスカスカに崩れ落ちそうな。
新宿ルミネを歩いててなんかそう思っちゃったという話です。