ここのところ刺激的なニュースばかり飛び込んでくる。
この件について誰かとしゃべりたい。
この件について一言で切り捨てたい。
この件についての疑問をとことん解消したい。
こう思うのは私だけじゃないはずで、昨日あたりなんか全国的にこのうねりが高まったんじゃないのかなと。
自分とまったく関係ない誰かのニュースでも、知りたい・しゃべりたい欲望が高まって、かつそれがうまく解消されないというのは結構なストレスと気づいた。
「なぜ?」「どした?」「バカ?」
たまらず口に出してみる。
蔑む気持ちが内側ではっきりしてきても、すっきりするわけじゃない。
かえって気色悪い思いにとらわれる。苦しい。
最近、新しい出会いがありました。
新しい本との出会い・著者との出会い。
「人間関係を半分降りる」の著者・鶴見済(つるみわたる)さん。
この本にたどり着いたきっかけは、とある記事の脇にあったアクセスランキング1位の見出し。
「年収でも価値観でもない…「結婚相手に絶対選んではいけない人」を見分ける”たった1つの要素”」
なに!?
すごくそそられる見出し。
でもきっと社会学者や結婚相談所運営者、はたまた恋愛アドバイザーの上から目線なアドバイスだろうと思った。これまでもそういう記事をたくさん読んできたから。
ちょい斜めな気持ちでクリックしてみたら、見出しのイメージと全然違う文章だった。
そんで鶴見さんは上記のいずれの人でもないフリーライター。
で、記事の抜粋元であるこの本を購入した次第。
その「たった1つの要素」に興味ある方はクリックしてもらうとして、私が衝撃を受けたのはこちら。
どんなに愛情をもってやったとしても、あまりにも近づきすぎると、悪意をもっていじめているのと同じことになる
これだよ・・・
あらゆる人間関係における自分の苦悩とぎゅっと結びついた。
私は今までずっと「距離」に苦しんでいたんだ…
「正しい距離感」というのがずっとわからなくて。
「集まりたくない」とか思っちゃうのも、複数人との距離の正しさを探るのに疲れるからと思う。
37歳くらいまで自分のことをオープンにするのにさほどためらいはなかったし、むしろ隠したい気持ちに罪悪感を覚えるほどだった。
同時に相手にたくさん質問したり知ろうとするのは、人間関係を築く上で良いことと思ってた。
お互いに興味ありまくりの1対1なら、オープンにしたり相手を知ろうとする能動性はいいと思う。
ただ、これも最近じゃ相当わきまえる必要があると意識するようになった。
どんなに興味があってもその欲望を全部満たそうとしない節度を大切にするというか。
そうじゃなきゃもたない。大事にしたい人間関係に慎重さは必須。
この2年くらいでそう思うようになりました。
でも実は距離感への違和感はずいぶん前からあった。
職場でとある社員の人が、誰かが休暇を申請するたびに「どこ行くの?」って聞くことにギョッとして、自分だったら「ほっとけよ」と思うのに、聞かれた相手が結構オープンに話してるのを見て、自分がおかしいのかなと思ったり。
はたまた、東京がひどい大雨であちこちの川が危険水域になってるとき、とある同僚に私が「〇〇川、大丈夫?」と聞いたことがあり、相手がギョッとしながら「詳しいんですね…(人の住まい情報)」と言ったとき「しまった!」と。
このとき、自分は「聞く・知る」ということに関して「越えがち」なタイプであると自覚して、こういうことはもうやめようとはっきり思った。
自分が前から違和感を持ってたことを自分がやってしまってた。
違和感を持ってたのに、「オープンなのは良きこと」という社会通念みたいのにただ沿って、いい人になろうとしてた。
川や住まいのことを深く心配してる人に見られたかった。
今ならそれが結構気持ち悪いこととわかる。
だけど今でもオープンで知りたがりなのが良いことか・気持ち悪いことかの社会通念は拮抗してると思う。
「良いこと」と思ってる人は今でも無邪気に人に疑問をぶつけてくるし、日常を引き出そうとしてくる。
仲良くもないのに同僚というだけでアドバイスしてきたり干渉してきたりする。
「私は親に20万あげてるけど、あなたはいくら仕送りしてる?」と、突然聞かれたこともあった。
言わねーし!
不本意ながら情報を共有してしまったとき、相手の「仲良し」の定義に入ってしまうのかもしれず、一度でもオープンにするとそのあとの距離が近い。
私にとっちゃこれはずっと不快だったのに、罪悪感ばかり募って不快感を自分に許せなかったんだな。
近い=良きこと。
何度もそう言い聞かせてきたけど、鶴見さんによればそこに愛情があったとしても「悪意をもっていじめているのと同じ」
悪意とはなんだ!悪意とは!と言う人は大抵社会的な力が強く、自分より立場・年齢が上の人。
それも苦しい一因だったと思う。
距離が近い人は一見いい人に見えるけど、独特の支配性も漂う。
この自分が支配性?とすっとぼける人もいて、特徴的なのは知り合いの陰口を言うこと。
「自分に関心を引きつける」「相手から情報を引き出す」ことへの強い意図。
私が目をまんまるくして、「そうなんですか?ひどっ!」みたいに反応するのを待っている。
まんまと反応しちゃうんだ…
知りたくないのに勝手に情報注入してきて、人の好奇心をかき乱したり、共感性を搾取する。
ワイドショーもまったく同じじゃないか。
相手を放っておけないのは、決していいことではない。
鶴見さんのこの言葉も胸に留めとこうと思う。
“疑問と干渉の果て” への4件のフィードバック
放っておくのも時には愛だなと思いますね。
親子関係とか顕著ですけど、私は持病があるので、その「放っておいてくれること」「必要以上に聞かないこと」をしてくれる友人や知り合いたちのありがたさが身に沁みてます。
まあ……私は割と全部知りたくなっちゃうんですけど笑 でもなるべく理性を持って留めたり、あとは聞き方をちょっと冗談めかして、相手が「言いたくない」って言えるようにしたりします。
正直、関係性が変わっても、対人間においては真に大切なことって変わらないんじゃないかなと思います。
相手に敬意を持つこと、思いやって、想像力を使うこと、そして親しき仲にも礼儀あり。
慣れてくると雑になってきて、「信頼してるから笑」とか言う人いますけど、本当に大切だと思ってたらそんな適当なこと出来ないと思うんだけどな……と、そういうの見かけると毎回思います。
ある程度とか、たまにとかなら人間なんで仕方ないと思いますけど……これは意外と一種の目安になるなと思ってます笑
ちなみに私だったら、川大丈夫?はそんなに嫌じゃないかなと思います笑
相手によって正解のコミュニケーションって真逆だったりするから、考えすぎないことが一番重要なのかもしれませんね_(:3 」∠)_
meeさん
コメントありがとうございます。
ここんとこは1対1でも聞きすぎない関係性が心地よいと思ってましたが、先日、先輩方に会う機会があってぐいぐい質問されたとき、これも心地いいな…と思ったりしました笑
過去に築いた信頼関係や敬意があるからでしょうね。
「慣れてくると雑」というのはもう本当危ないラインですよね。
でもそこをうっかり越えてやらかした〜…ってなってもそばにいてくれる人との関係を大事にしていければいいんでしょうね。
川大丈夫?についてですが、自分の住まい情報をみんなの話題にしてもらいたくない人が一定数いるということを知った出来事でした。
昔は「どこ住んでる?何線で通ってる?」という話題がコミュニケーションのきっかけだったと思うのですが、最近はあえてそこ聞かないと心がけてる人もいるらしく。
人間関係や距離感のことは年々少しずつ更新されてる感じがします。
考えすぎないことも大事ですね!
やっぱりしっかり人間関係を築くことが大事ですよね。
うっかりやらかしてしまった時、毅然と「それはいやだ」とか「それはどうかな」と言ってくれる人も大事だなと思います。
全部否定は完全にモラハラなんですけど、なんというか……押し付けではなくて本当に間違ったことをしている時に諭してくれる人とか……その上でそばにいてくれる人というのは本当に貴重だなと思います。
川大丈夫は、そういうことだったんですね!
自分が結構、基本は知られたくない、好きな人には知っておいて欲しい、というタイプなので、当たり前に思っちゃってました。
確かに、最近は特に個人情報をどこまで聞くかとか頭使いますよね笑
私も確かに、伝える時は人によりますがざっくり使う線だけ伝えるとか、この駅なら出やすいとかくらいで最寄りは心を許した人にしか伝えてませんね……
確かに、年々更新されてますね。
こういうのも色々試しながら、より良いものに落ち着いてくるんでしょうね。
距離感や相手と自分をきちんと大事にしたコミュニケーションが取れたらいいなと思います。
そう、考えすぎると逆にやらかす場合があります……笑
meeさん
「それはどうかな」など毅然と言える関係いいですよね。
私は年々、このあたりに及び腰になってて、友人にピシッと反対意見を言われると感動すらします。
自分が言えなくなってきてるのはどうにかしたい。
平成生まれの若者が「人の住まい情報はあえて聞かないです」と話してくれた時、今ってそうなんだ?と思ったんですよね。
私の職場だけかもですが、若い人は同僚の詳しいことあまり言い合わないみたいで、でもなんか仲よさそう。
情報とかじゃない気持ちの部分を重視した会話なんでしょうかね。
そういうの意識するの楽しいです笑