宇多田ヒカルのアルバム、新譜含めて3枚届きました!
と同時に、なんとスピーカーまで買っちゃいましたよ。
私に音楽への熱意を呼び覚ましたのは2012年、岡村靖幸氏の音楽との出会いだったわけですが、「よりいい音質で聴きたい」と2016年、私を突き動かしたヒッキーの新譜「Fantome」は、それほど胸揺さぶられるものでした。
「Fantome」
=亡霊・幻影(フランス語)
曲を聴いて涙がにじむものばかり。
こんなアルバムはないです。
私はやっぱりここに、「日本にいなかったヒッキー」を感じる。
「タイアップ」は商業的にも社会的にも「成功」とダイレクトにつながるのだと思われてるけど、私にとっては「悲劇」でしかない。
ドラマの主題歌ならまだしも、公式応援ソングとかがよくわかりません。
「Fantome」の中の「花束を君に」と「真夏の通り雨」は、だから私にとってちょっと避けたい曲だった。
のだけども!!!
そこはさすがヒッキーです。
タイアップのイメージを凌駕してる。
「いかにも国民的」というTV番組のイメージは、このアルバムの中においては完全に薄れてます。
どんなに好きで見てたTVだとしても、「公」ということの商業感がどうしても好きになれないことがある。
大事な大事な曲の「一部分」を切り取るってのは、やっぱりどうかなっていうのすら浮かび上がらせたこのタイアップ曲。
一部分が見せる「顔」は、本来の「顔」とあまりにも違う。
「真夏の通り雨」は、なんならもう涙がこぼれちゃいました。
「NEWS ZERO」のエンディングと全然雰囲気が違います。
その詞は一瞬、抱き合う男女に思える。
汗ばんだ私をそっと抱き寄せて
たくさんの初めてを深く刻んだ
だけど「はっ」とした。
抱き寄せられているのは、赤ちゃん…。
そこに気づいたときに涙がぼわーっとあふれて…。
このアルバムは、すべて「お母さん」への思いが込められてるように感じました。
この間の「SONGS」がまるで付属DVDみたいに、いろんなヒントが込められてたよう。
もちろんヒッキーにとってのお母さんといえば藤圭子さんなわけで、ヒッキーとの別れがドラマチックに思い起こされたりもするんだけど、だからといって「ヒッキーのドラマ」前面のアルバムじゃない。
「私とお母さん」
誰にとってもそんなアルバムだと思うし、
「私と愛する人」
性別や関係性も超えた、すべての愛へのアルバム。
なんたって1曲目の「道」です。
この間の「SONGS」では、歌うヒッキーの姿に圧倒されて、その後何度も試聴したくなって、買うまでにはもうメロディー覚えちゃって大好きな曲となりました。
ヒッキーといえば「畳みかけ」が特徴的でもあります。
「Prisoner Of Love」でも、その”Prisoner of love…”っていう歌詞を何度も繰り返すし、「Keep Tryin’」でも特に最後の方で”お父さん Keep tryin’ tryin’…”って畳みかけるように繰り返してる。
どっちもここの部分がほんと好き。
「道」では”It’s a lonely It’s a lonely …”とか”not alone not alone ナラローン …”って繰り返すとこがなんとも気持ち良い。
そしてこの2か所の間にある”フッフッフッフッ…”ってとこが、まるで出産時の「ラマーズ法」みたいに聞こえるのは私だけ…?
失った苦しみ。
産みの苦しみ。
どちらも壮絶な体験だっただろうけど、確かにその経験がこのアルバムのベースに横たわっているようです。
愛していたし、愛されてもいたということへの深い感動も。
歌詞ブック開くと、アルバム名のごとく藤圭子さんとの合成?と思うほど似てるヒッキーのモノクロ写真。
でもカラーで映るヒッキーは、間違いなくヒッキーです。
それも、これまでとは違うnewヒッキーを感じるわけで。
2曲目の「俺の彼女」を試聴したときに、このアルバムを買おうと決めました。
なんかちょっとジャズっぽく感じて、ヒッキーってこういうのも作るんだ!こういう歌い方するんだ!っていうとこにワクワクしたのでした。
このアルバム内では珍しく「男女」の曲。
ヒッキーが男役・女役両方やってます。
一人ミュージカル風がまた切ない。
こういうメンズに悩んでる女子が、今の日本にどれだけいることか。
日頃からそんな風なことはビシバシ感じてて、私だってブログでそういう不満を綴りたい。
「さらっとしてて、かつ美人」
そんなことばっか求めやがって。
だけど書いちゃうとキツくなる。
ただの遠吠えはさびしくなっちゃう。
それをヒッキーは歌っちゃうのですね。
カラダよりずっと奥に招きたい
ほんとはココ!!
…って、力説したいのは一体誰に?
本当に欲しいものを欲しがる勇気欲しい
女としてのあり方だけじゃなく、人間としてのあり方まで切なく訴えてくれるヒッキーです。
そしてまた泣ける1曲「人魚」
今度こそは男女の曲だろうと思って聴いてみました。
シルクのブラウスが濡れるほど
黄昏が胸の奥 滲んでしみる
だけど・・・
沖へ向かう人魚を見たの
お母さーん・・・
「ブラウス」とか「濡れる」とか「ベッド」とか、そこで男女を感じる年齢じゃなくなってきてるということでしょうか…。
今の私にはどれも「少女性」とか「赤ちゃん」の暗喩に思える。
ヒッキーは何もかも誰よりも超越してるように見えるのに、誰にでもすーっとわかりやすくて、難解さなんてちっともないメロディーの曲作ってくれるとこが好きです。
「人魚」はそう思わせてくれる、ほっと安心感のある曲。
「率直でないことが不謹慎に思えた」
「勇気を出して率直に表してみた」
これもまた、「SONGS」での言葉。
率直であるのは難しいよ、日本では。
っていうのは、本当に言い訳。
率直さは自分を変える、人を変える。
その真剣さがどしんと伝わってきて、泣けたんだと思うのです。
お母さんみたいに低くまろやかなヒッキーの声は、
そうか、子守唄みたいでもあって。