「紀子の食卓」

紀子の食卓」をいよいよ見なきゃならないと、焦ってAmazonで中古品を手に入れました。
あのころの吉高由里子さんを絶対見ないとならない気がした。

映画の主役・紀子は吹石一恵さんです。
吉高さんは紀子の妹・ユカ。
家出した2人の娘を必死で探して取り戻そうとする父役は光石研さん。
紀子とユカが出会うレンタル家族業の代表者・クミコがつぐみさん。
だいたいこの4人でストーリーが進んでいきます。

お昼から見始めて、やっとさっき見終えた。
「やっと」と出るくらい、実はちょっと疲れた。
おもしろいかと問われると、、よくわかりませんでした。

だけどあのころの吉高由里子さんを見られて良かったと心から思いました。
たぶんこの先も吉高さんのこと何度も見たくなるのだと思う。声を聴きたくなる。だから買って良かった。
そう思うほどの表情と語り方。
園子温監督が、まっさらな吉高さんに確実に何かを吹き込んだ。
「愛のむきだし」の満島さんみたいなきわどい太ももなんて一切出てこないけど、仲良しの男子高校生が肩に触れてくるその手を振り払ったり、ふざけて彼から逃げる姿だけで十分色気があった。
何よりやっぱり美少女です。

吹石さんはやはり主役であるので、1段落目はずっと吹石さんの語り。
脚本はもちろん園子温監督であるのだから、少女が東京へ出たい気持ちや苛立ちの詩的モノローグは園監督によるものだろうけれど、本当に少女的な幼さばかりが目立ち、吹石さんの語りや演技は、なぜか月9っぽく見えてしまう。
それが2段落目の吉高さんの語りになると、不思議と少女の切なさの重みが出てくるのだから、ぐっときます。

が!!!
あるところを境にして、吹石さん・紀子ががらっと変わる。
笑顔が恐ろしくてしょうがなくなり、そのコントラストを生み出すための最初のオドオド・イモな吹石さんならば、すべてに意味がある気がした。
見ててイライラするような紀子を、妹のユカもいつもチラ見。
家族は本当の家族である間は、そうやってバカにしたり無視したり、「関係」について思いをめぐらせることなどついぞなかったという皮肉。
誰かを失うまでは。
吹石さんからはその空虚さを怖いほど感じられました。
吹石さんは狂気で、吉高さんが正気。
一見、逆みたいに思える役柄のぴったりさに震えたのです。

園監督は、「愛のむきだし」でもそうですが、女同士の戯れを印象的に描かれるんですよね。
紀子は東京でクミコと出会うなり、レンタル家族の一員にいつの間にか組み込まれるのですが、まだ何が起きてるかわかってない紀子が、クミコと狭いベッドで夜、語らうシーン。「吹石さん?」と一見わからなくなるほどに美しくて、胸がたわわ。

それだけじゃなく、女子高生54人が新宿駅のホームで手をつないで、「いっせーのーせ」で集団飛び込みを図るシーンなども、園監督は著書でも綴られていたとおり、「女」に特別な何かを期待して託していることが感じられ。それってなんなのだろうな。

17歳ごろの女子といえば、男子の性的想像肥大傾向のことなど確かにつゆしらずで、男が何でも性というフィルターを通してしまいがちなのだとすれば、女子高生はまだそうはならないギリギリの年齢かもしれない。
かといって胸に抱くことは幼いばかりでもなく、これからの人生のベースとなるような深刻さが確かにあった。
人の好きになり方などは、あのころに戻りたくても戻れない純粋さも母性もある。
その綺麗さを監督は想像でさらに聖域化して崇めているようにも見えました。

思えば殺すシーンってなんなのでしょうね。
ナイフを持つのはいつも男。(この映画で)
今まで感じたことなかったけど、人を殺したいというそのシーンからものすごい支配性が浮き上がる気がした。
「殺してやるー!」ってなんなのだろう。
泣き叫んでもわめいても思い通りにならないのなら、殺すしかないだなんて、それが物語に入ってくることの意味とはなんなのだろう。
今まで血しぶきあがるシーンにそう思うことがなかったから、すごく引っかかってしまった。
この映画に限っていえば女は誰かを殺すのではなく、自殺を選んでしまう。
「どうしても変えたい」と究極に思う時、男は相手をめちゃめちゃにする支配を選び、女は「私が変わるしかない」という絶望に飛び込むということかな。

クミコ役・つぐみさんの怒りや笑顔の表情がものすごい迫力でした。
光石さんはさすが、まだ何が組み立てられるかわからないストーリーの柱を浮かび上がらせる確かさがあったし、狂気じみた顔でノートに何やら綴るシーンは、TVドラマじゃ拝めない!!
安藤玉恵さんも出られてましたが、あの方はなんであんなに色気があるのでしょう。やはり肌など露出してないのに、です。

そしてまた吉高さんに戻ると、いちいち私は吉高さんに感動してた気がします。
左利きなんだ!というとこすら。くしゃみの見事さ、早朝に鼻をすする感じも。
たぶん園監督も、いちいち見ていたかったんじゃないのかな。
著書で書かれていて印象に残ってるところ。

映画においては意味が容易にわかって感動するシーンよりも、意味もわからずに感動するシーンのほうが僕は面白いと思ってる

それは「愛のむきだし」で、ヨーコが「コリントの信徒への手紙」を長々3分絶叫するシーンのことを言ってるのですが、「あ、あそこ意味わかんなくていいんだ!」と思ったら、「紀子の食卓」では「わかろう」としてみずに臨めた。
なのにです、吉高さんの演技は向こうからぐっっと入ってくる。
何より私もユカであるはずだと思いたくなるのです。
家族に冷めた気持ちを抱きながらも、誰よりも家族を愛してる自分。
家族みんなどこか勝手で、わかり合いなんて諦めているけど、実は諦めてない、みんなのこと観察してる自分。
突き放しているようで思い切り甘えたい。そういうキャラクターの普遍性。

だから面白かったか?と問われると、、やっぱり「わからない」としか言えないのですが、「見るべき」一本とは言えそうです。

「とっても大きな気持ちを小さなコップに注ぐと溢れ出してしまうもの、それが涙よ」

という紀子のセリフがありましたが、この映画はストーリーからあふれたものを感じるのが楽しいということかもしれないです。

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