「もらう・あげる」というストーリー

12月入ってから眠くてしょうがないです。
珍しく多忙な上にブラックフライデーだったため、「仕事をこなすこと」と「お得に買うこと」「眠い」ってことで頭のほとんどが占められていた。

なのに実際は大して得な買い物もできず、あげく猫のカレンダーを2個同じの買ったりして、頭を抱えていた。
900円なので、「あげるよ」とタダで人に差し出すには抵抗がある。
もらう側からしたら900円って「ありがとー」って気軽に受け取れる金額でもないように思うから。

物をもらう/あげるって結構気を遣うことです。
職場に手作りベーグルを配る女性がいて、コロナ明けに久々いただいたときは感慨深かった。
同僚たちもそんな感情・感謝を表現したのだろう。
その女性が配る頻度が増した。

こういうお礼ってどうしたら…と、わりと悩んでたコロナ前を思い出しました。
近所の(といっても徒歩20分くらいの)お菓子屋でクッキー買ってお返ししたら「そんな、いいのに〜」と本当申し訳なさそうだったので、あ、これはやりすぎなんだろうなと思った記憶。
その女性の作るベーグルは無添加なので、お返しがコンビニのチョコバーとかじゃ困るだろうか。食べないだろうか。
650円のクッキーだとたぶんやりすぎで、210円のプチお菓子だとケチくさいような。
つらい。正解がわからない。
お礼をしないことで、「もう結構ですので」という意思表示になればいいなとも思った。

ひとまわり年下の同僚女性が、「私、あのベーグル欲しくないんです」と打ち明けてくれた。
(言うね〜)と内心ドキドキしたけど、その実ほぼ同意。
彼女が言うには、「今日これ食べよう」って決めて買ったものが後回しになるのがつらいと。
もらったベーグルを後回しにすれば、時に捨てることにもなる。
その罪悪感を負わされるのも腹立たしい。
(わかる!!)
私はお返しがつらいことを吐露した。
「私、お返ししたことない!したほうがいいのかな…」
余計な悩みをまた負わせちゃったかも。

母親のいとこという女性から、1年に2、3回贈り物が届く。
食べ物だけじゃなく、靴下や手袋、時にバッグやカーディガンだったりもして、「どうしよう」と思う。
前は母親も「恵んでもらってるようで気分が悪い」と言っていたけど、最近は母親も買い物に行けないので、「ありがたい」と素直に喜んでいる。
「親戚の中で私だけが彼女に優しくしてたからなんだろうね」
それは50年くらい前のことという。
半世紀前の恩義!!
その人にお返しを送ったら、数週間後に「お返しのお返し」が届いて、返礼はひとまずやめようと思った。
ありがたく受け取っとこうと。


「よかれ」って難しいな〜。
ただ、「要らない」って声を「正しさ」とするのは何とも世知辛い。
でも正直、「あんま要らない」って気持ちを押し込めてきましたよね。
「よかれ」を胸いっぱい受け止めようとしてきた。
それで勘弁してくださいと、どこへともなく頭を下げる。
「ありがたいです。あなたいい人です」
そう言って走って逃げたい。
頻度問題なんだろうか。
「半年に1回、いや、1年に1回でいいです」
こっちから言うことじゃない。


でも、ちょっとしたお菓子の交換が成立する同僚もいます。
そういう同僚との間に「よかれ」は意外に漂ってない。
言うなれば「押し付け」
「食べてみてよ」
「ふーん。ありがと」
それでいい関係。
おかしのまちおかで珍しいの見つけたからと、ちっちゃいのを交換し合う。
そういう人とは本も「読んでみてよ」と押し付け合う。
「最後まで読めなかった」と返されても、「ダメだったか(まぁ押し付けたからね)」と思える。

これまたサービスエリアで買ったという手のひらサイズのりんごパイ頂いちゃうと、申し訳なさが込み上げますね。
大きさ問題というのもある。
「この私にそんな、いいのですか?」という微妙なライン。
「何人かにも渡してるし」
(なんだよ・・)
なぜ拗ねるのかわからない。
同性同士でも、「特別なわたし」と感じたかったりする。


「善意」しかないのに、時に気持ちが窮屈になる。
それは心の狭い自分の問題と思うことはいいかげんやめたい。
とかいって、この善意飽和状態の中でウダウダ思ってる自分は、実家暮らししてた頃の自分そのものだ。
「いらないって言ったのに」
母親の手料理を無視してコンビニの焼きうどんを食べた夜。
それがどんなに残酷だったかわかってるから、善意に見合う何ができるか今でも少し悩むのだろう。

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