ハラスメント対策室ができてから

職場にハラスメント対策室ができてから、ちょっと雰囲気が良くなったように感じてる。

と同僚に言ったら「そぉ?」という反応だったので、大して変わってないのかもしれない。
でもハラスメント行為者が呼び出されてたり、配慮が目に見える形で行われてたりと、肌で感じる変化は確かにある。

 

ハラスメント者は誰と誰と…という共通認識は確かに職場内にあった。
なのに、長年なんの対策もされてこなかった。
対策とか、誰かに頼むもんじゃないという意識もみんな強かったと思う。
「嫌だな」と思った側の気持ち次第と見なされてたというか、同僚との愚痴でスッキリできればそれでいいじゃんと思い込もうとしてたというか。

最近思ったのは、明らかにいじわるされたり嫌なこと言われたとき(=ハラスメント行為)、心から癒やされなければその不快感はずっと消えないんだなと。
「許す」「忘れる」「気にしない」という自分の気の持ちようで、傷ついた感情も記憶も消せると思ってたけどそうじゃない。年齢重ねても消えない。
むしろ「どれだけ傷ついて嫌だったか」ということを思いまくるというか、そう感じまくってもいいと自分に許さないと癒えないみたいなんですよね…
それに嫌悪感ってなぜかハラスメント側に察知されやすいんですよ。
互いの敏感さがやけに共鳴しちゃうというか。

 

投影という話で見れば、やだなーって相手は自分の家族や幼少期の誰かとの関係コピーみたいなもので、自分内の「やだなー」が癒やされない限り繰り返すらしく。
家族の誰かの顔色にずっとビクビクしてきた人は、社会に出ても誰かにビクビクするパターンを持ちやすい。
その根っこが癒やされないと投影は繰り返される。

投影とはいっても社会的な対策は必須。
ただ、相手を変えるってなかなかできないし、社会的な行動に出るにも自分の内面に強い部分がないとハードル高い。
そういうとき自分のパターン探ってみて、その嫌なことを受けてたときの自分の頑張りをいま称える…ということを少し試すだけで、自分の本来の強さが蘇ってくるのかもしれない。
私はこの数年、そんなことばかりしてきた。
癒やしが進んだタイミングでハラスメント対策室ができたという現実は、偶然なのか心とのリンクなのか、こういうのは本当不思議。
T冥王星が水瓶座に入ったタイミングだったので、そういうのもありそうだけど。

 

「自分さえ我慢すれば」とか「自分にも悪いとこがあったから罪深い」と、自分に十字架を背負わせる人は多い。自分もずっとそうだった。
でも一番罪深いのは自分を傷つけることであり、自分が自分の味方にならないことであり、自分と相手を並べてジャッジして相手に軍配を上げるようなこと。
こんなつらいこと、なぜしちゃうんだろうねと思う。
自分のせいにすれば万事うまくいく、みたいなのってなんか全体的に根付いてますよね。
でも、それが良きことという流れに変化が起きてるのも感じる。
今が変えどきなんですよ…!

 

ハラスメントしちゃう側のことを思ってみる。
自分がハラ行為してる自覚があるのか、そのへんがとんと謎だけど、「自分こそ被害者」と思ってるふうなのは感じられる。
あの人たちも何らかのパターンを周りに投影してるのかもしれず、それは自分が周りの大人からいじめられてきたことの逆再現なのかなと思ったり。
なぜあんないじわる行為をするかって、きっとなんらかの快楽を感じるからで、そのすっきり感のパターンから抜け出せないんじゃないだろか。ある意味依存的な。
あと、自分が言い負かされそうな人の前ではほぼハラ行為をしないですね。
つまり快楽が邪魔されそうな現場ではいじわるをしない。

またターゲットになりやすいのがビクビクしがちな人。
「怒られるのがとにかく怖い」というパターンをいつも持ち続けてて、何をするにも「怒られないように」が動機だし判断材料。
私もこのパターンを持っていたし、「改善するのでダメ出しください」みたいなことずっとやってたけど、これ最悪だったなと今では思える。
そんでハラ野郎に評価されたってしょうがないのに、「OKだったですか?」とか顔色うかがうことをやめられない。

社会的なハラスメント対策としては、行為者に快楽を許さない状況を生み出し続けることでもあり、つまり監視者が常にいるような状況にする。
根本的な解決策じゃないかもだけど、痴漢も監視者の存在感を際立たせてこそ撃退につながりそうとは思うから、一時しのぎとしても社会的には必須ですよね。
不適切な保育とか介護などの現場でも、監視の目の下ではハラ行為はかなり抑制されそう。
だから今、「家庭内」が危険な場とも言われたりしてますね。

 

癒やしブームは次々起こるけど、「自分の心を癒やす」という領域にはなかなか光が当たりにくい。
家族がとにかく神聖視されがちで、こんなに育ててもらったのに不満を掘り起こすなんて…と罪悪感が刺激されるから、そこを乗り越えるのは確かに勇気がいるけども。
「全部自分のせい」となる流れはわかるんだけど、そう思いながら生き続けてもいつも自分の犠牲のあたりで流れが止まってしまう。
そんでまた不思議なことに病気とか怪我とか、強制的に癒やしを必要とする体験も起きたりして。
心だって癒やしを求める馬力がある。どんなに抑え込んでも必死でつらさを訴える。健全さをあきらめない。
その心の健気さに泣けてくるじゃないですか…(誰だよ)

私としてはとりわけ自分を責めないようになったことで、友達や家族を不用意に傷つける言動もほぼなくなり、「こんなこと言いたくなかったのに…」ってコントロール利かないこともなくなった。
そしたら、傷ついた!って思うこと自体減って、まず会わなくなりましたね、ハラ野郎と物理的に。
こういうのも不思議な変化・現象です。

 

 

 

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