「リアリティのダンス」

急速にホドロフスキー熱が高まっている今日この頃です。

カモワンタロットの制作者の1人だと知ったらば早速タロット購入し、そういえばいつしかのTVブロスで岡村靖幸さんと対談されてたと思い出したなら、すぐさまバックナンバーを購入し(これがまた良い対談でした…)、そして不思議なことに、池袋でこの時期映画が再上映されるという情報が、リツイートから飛び込んできたりする。

しかもこれまた、いつも深夜勤務の私が唯一駆けつけられる木曜日の、なんとか駆けつけられる時間帯から上映で!
でも木曜日は、ほぼ確実に残業してるのです。
だから半分あきらめてました。
んだけども!
何かの計らいのごとく、残業しなくても大丈夫そうな仕事量!雰囲気!

でも観てこれたのです~
20分遅れだったけど、大丈夫!セーフ!
きっとホドロフスキー監督が、「ぜひ観たい!」と思ってるすべての人の無意識をキャッチして、願望→実現化の扉を開いてくれたのだと思うことにします。

ただ、見逃してしまったこの20分は、とっても大事なところではあったようです。
それは惜しいのだけど、惜しいのだけども、
観てる間も、むしろ帰ってきてからのほうが、感じて感じて感じて…。

考えなければいけないところも、あったのかもしれません。
時代背景とか、人物の心の向かう先とか。
あれはあれの象徴だとか、私はいくつも見逃してるんだと思います。
でもホドロフスキー監督は、「正しく理解する」ことなんて、さほど観客に求めてないはず。
すべてから伝わるのは、やっぱ「感じてね」ってこと。
あなたの中の子どもの心でね…って。

私は監督の代表作「エル・トポ」とかも知らないし、そんな人は語る資格ないのかな。
いつでもなんだか偉そうに言うのは、映画をやたらたくさん見た人たちとか、映画評論家という方たちなのだと思う。

映画のパンフレットも買ってきたけど、なぜだか多数あるコメントのほとんどが男性のものばかりで、しかも全然面白くない。
相当著名な人もいるけど、「わかってんのかな」って思ってしまった!
にわかなくせに超えらそーだな、自分!

唯一泣きそうになったのは、よしもとばななさんのコメントでした。
荒俣宏さん、横尾忠則さんのコメントも、おぉ…となった。

なんで男の人にばっかり聞くんだろう。
こんな奇才の監督について語ってもらうには、「アーティスト」とか「文化人」という分野からのエールが必要ってことなのだろうけど、誰のために?おしゃれのためなの?
映画館がそれを望むのかな、制作会社が?

おしゃ文化人が名を連ねたところで、「なーんだ」って鼻白む人たちがいるということを、自称「おしゃ」側はずっと気づかないのだろうと思う。
ホドロフスキー監督は、親のいる人に、幼少時代があった人に、つまり誰しもに観てもらいたいと思って作ってるはずなのに。

でもそれでも、パンフレットを買って本当によかった。
監督が映画について結構細部まで語っているのだけど、それが泣けてしょうがない。
映画を観てるときも、観たあとも、泣きそうなんだけど「こんなとこで?」っていうシーンで涙することを、私のどこかが許さなかった。
「よく考えてみて、感じたわけ?ここで?」
そんなふうに「考えろ」にすぐ支配されちゃって。

これは○○の物語だ。

1人1人が重きを置いたところはそれぞれ違うのだと思う。
映画を観てるときは私も、少年の表情と小さい頃の自分が重なって、胸締め付けられる思いになった。
あと、どうしようもなく堕ちた人と何人かの出会い。
現実の残酷さとか。

パンフレットを読むと、「家族」に私の中心が吸い込まれていって、ホドロフスキー監督の言葉はインナーチャイルドまで癒やしてくれるかのようでした。

監督は、子どもの頃に欲しかった家族を映画で実現させたのだと言う。
なぜだかこの一文に泣けたのです。

私の家族はいろいろあったけど、それでもどうしようもない家庭環境とまでは言わないくらいの、なんだかんだハートフルな家族でした。
だけど、もし私が家族の映画を撮るとして、「こんなお父さんだったらいいな」「お父さんとお母さんがこんなだったら、2人とも救われるかな」とか、私が描きたいように家族みんなを「再生」したとしたならば…。

「自分の魂にも良いことでした」

ホドロフスキー監督は、映画としてのこの「再構築」をそう語られる。

「私の家族の再生物語」、これを思い描いてみただけで泣けてくるのは、決して「思っても無理…」なんて絶望ではなくて、なんか知らないけど浄化みたいなホロホロした気持ち。
さっき帰ってきて、お風呂入ってPCに向かって、こんな短い時間内に頭に浮かべた家族のショートフィルムは、みんな赦し合ってる寅さんみたいな風景。
家族の本当の優しさを、私の頭の中で思い出して再生できたことに、泣けてしょうがないみたいです。

映画の中の「父親」は、本当にもう、最初は席を立とうかと思うくらい嫌なキャラクターだった。
でも時々見せる優しい目が、サブリミナル効果みたいに「もう少し見てみよう」と思わせる。
後半は、同じ役者とは思えないくらいの表情でした。
人の神々しさに触れて心底感動するその目も、神々しさで満ちていた。
「鏡」ってこういうことなのでしょうかね。
蔑まれて憎まれたら、愛は育ちようがない。
誰か一人でも、信じられると思えたなら…。

絶望と恐怖感で壊れそうな少年時代の監督を、ホドロフスキー監督みずから背後から抱きしめる。
残酷なシーンが多い映画の中で、もうホント、監督自身が語るところが束の間の癒しタイムでしたよ。

私はずいぶん守られて、ここまで来たと痛感した。
だけどそれがよかったのか悪かったのかはわからない。
映画に出てくるような残酷な世界は確実にどこかにあって、貧しさや暴力や差別や友達の死。
映画並みの残酷さには遭遇しないで来たけども、大人には言えない残酷体験は、ちょっとはある。
やってもない罪を教師に認めさせられたり、弱い子と可愛い子を目の前で差別する教師におびえたりとかさ…。
いつもスカートめくってくる隣の家の足引きずってる男の子に、私は初めて色気を感じた気がしたんだけど(小1)、ある日突然隣家がもぬけの殻で、一家で夜逃げをしたってことにどんなに傷ついたか、大人は知る由もない。
でもそれは通過儀礼なのだから、小さいながらに絶望を感じて学んでるんだ。

ホドロフスキー少年の母親から、感じたものは確かに「愛」。
どんなに夫が怪しいほうへ向かっていっても、嘆くんだけどそれも愛。
感染したら死に至るような夫を、隔離するどころか一体の儀式で救えるはずと信じて、そして救った。
夫が旅から帰ってこなくても、心に聞けばどこでどうしてるか分かると言う。
ぼろぼろになった夫を抱きしめる女は、母親でもあった。

息子を亡くした体験をされた監督。
末の息子が、亡くなった息子の年になったときにこの映画を作ろうと決めて、そして長男は父親役に、そのほか2人の息子も役者として出られてます。
衣装デザインは奥様。
音楽担当は、末の息子さん。

物語としての「家族」
監督の実際の「家族」
脳内で再構築してみた私の「家族」

映画を観てたときには、そんなに家族的テーマを感じてなかったのだけど、帰宅途中にじわじわと、そんでパンフレット読んでほろほろと、ハートフルさに包まれてね (およよ…)

カモワンタロット引いてみたら、愚者逆位置!

この世ではないどこか…
子宮に戻っていく心地で、もう寝ます。

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