「不気味さカテゴリ」というのを新たに作ってみました。
いずれこのカテゴリを独立させて1つのブログにしたいという目論見があるけど、続くかはわかりません。
飽きっぽいので。
私にとって「不気味さ」というのはゾクゾクするほど惹きつけられるもの。
その多くは「表現」の世界にあります。
最近では山崎まさよしさんの騒動に何やら不気味なものを感じましたね。
「今日は歌いたくない気分」というお気持ちより、ライブを見た人たちの目に「異常」と映った事態に惹きつけられた。
自分はなぜ不気味さに惹きつけられるかといえば、不気味さの中に「生命」を感じるからかなと。
特に「死」に向かっていきそうな下り坂のどうしようもなさ。
死の近づきから這い上がろうとするあがき。
必死であがいてるにもかかわらず、なかなか理解が得られない遠巻きな視線。
人は不気味なものから距離を取ろうとする。
あの日の山崎さんは、歌ったら死に近づきそうな何か心の事態だったんでしょうか。
わからないけど、そう勝手に想像したら妙な輝きを感じなくもない。
不気味さはしばしば奇跡を見せる。
それは「生」への輝きともいえます。
去年死んだ飼い猫は最期、数十分おきに全身をけいれんさせて、何度もその様子を目にすることがつらくてしょうがなかった。
第1回のけいれん時など、ついにお迎えの瞬間…それを目にすることに恐怖を感じてしまいひどく動揺した。
けど、けいれんが終わるとケロッとした表情になり、その猫の目の輝きが美しかったんですよね。
不気味さが一気に黄金の瞬間になり、生命力にいたく感動しました。
その初けいれんから死までは3日もあり、猫にとっては間違いなくつらいはずだけど、そのたびに黄金の輝きを見せてくれたことは命の奇跡だった。
こんな感じで不気味さを軸にしばらくあれこれ綴っていくかもしれません。