嫌なものは嫌だ

今朝の「ボクらの時代」
森山未來と菅原小春が子どものうちから大人の枠組みに「あ、違うな」と感じて、所属先から離れたという話をしていた。
そのことを関口メンディーが「疑問を持つことができたんだ」と言う。

やっぱり正しかったんだと、漠然としたあのころが思い返された。

小さい頃の「嫌だ」とか「違和感」とか、誰かに掬い上げてもらえるなんて奇跡みたいなことで、「あ、こんなこと思っちゃいけなかったんだ」っていう矯正の努力をどれだけしたかという話ですよ。

あの人の言い分、おかしいよ。なぜあの子はたたかれなくちゃならない?
小4ごろに心臓バクバクで誰かに訴えてみても、同じ小4たちは節目がちに首を振るだけだった。
子どもは純粋というけれど、たった10年そこらで無邪気や正直が許されないことを体感していく。

大人になってもその構図ってほとんど変わらない。
「なんで?」「おかしくない?」という問いは、沈黙や無視の壁を打ち崩せない。
「決まりだから」「普通だから」「家族なんだから」
このひどく漠然とした概念はたびたび圧倒的な力で人を支配してきた。
漠然としすぎだからか責任取りたくないからか、「だからなぜ?」という更問いの答えはない。

もしかしてこの時代、「それっておかしくない?」という問い自体が「誰かを傷つけかねない」というぎりぎりハラスメントに位置付けられてるのかな。
「でも悪意じゃないんだし」「むしろ善意だし」
ということでオールOKになりかねない社会ムード。

森山未來と菅原小春は「離れた」という決断で今の輝かしさがある。
わかる。私も「ここじゃない」と感じて何度場所を変えただろう。
お二人が自分の価値観に自信を持てたのは、海外に行ってからのようだった。
「日本じゃ…」という会話もぽつっと出てきた。
菅原さんは最初バックダンサーで、「バックなんだから表現を抑えて」と何度か呼び出されたという。
海外じゃそれはなかったと。

私は人が・仲間が好きなんだから、本当ならば離れたくはない。
聞いてくれればいいのに。
目を見て耳を傾けてくれればいい。
例えば「みんな仲良く」と言うだけで、それができない人には努力を課されるだけ。
なぜ仲良くできないのか、何があったのか?
しまいにゃ、仲良くできない人は去ってください、ともなりかねない。
そりゃ攻撃性はよくない。
おとなしく見えても「無理なんだ」ということがある。
声を聞いてくれればいいのに。
みんな仲良くする必要ありますか?ということ。
つながらなくても十分尊重し合える。

私は誰に訴えてるんだろう。届かない声。
集団。大勢。
私が複数人で集まるのが苦手なのもここにある。
自分が多数側だった場合、個を個として拾う意思が極端に弱くなることがわかるから。
「あなたの声を聞かせて」と、多数派から一歩踏み出すのは確かに勇気がいる。
能面みたいな集団の気持ちもよくわかる。

だから仲間の中でうまくやるには適度なヘラヘラがいいんだと、やっと体得できたと思ったんだけどね。
小さなモヤモヤは大きな爆発に育っちゃう危うさ。
おかしいものはおかしいと感じ続けるしかなく、抑えるから自分の核みたいなとこが怒る。
私は先日の怒りをいったんは反省したけど、なぜ怒ったか、そのゆえんまでは消さないようにしよう。
怒りも悲しさもたくさんある。ありまくる。
なんの勘なのか母から電話があって、涙声を抑える。



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