年が明けました。
昨日の地震は怖かったです。
北陸にご実家があったり、暮らしているという何人かを思い浮かべています。
私の甥は高岡市に住んでいて、「大丈夫」と安否確認ができたものの、地図を見ると海がとても近く見えるので気が気じゃなかった。
今は津波警報も解除されたのでほっとしています。
大きな揺れにはずっと見舞われているでしょうけど。
私にとって年末年始はいつからか深刻なシーズンになってしまいました。
なんか心がえぐられるドラマが集中して、涙目になる出来事が起きやすい。
「悲しい」という感情が湧きやすくなる。
だけど救われる言葉をかけられることもあり、感動の涙目にもなる。
年末って私だけじゃなく誰しもが少しドラマチックになるんだろうか。
2023年は本当に頑張った。
頑張りすぎてしまった。
だけど私は根気強くないので、「もうダメかも」と早めにヘルプを求めるタイプではありますがね。
それでも踏ん張らなきゃならないことがある。
誰しも人生でそんな日々を過ごすことがあると思います。
2024年はあんま頑張らない、と決めたとしても、きっとそうはいかない。
そこで2024年の大目標。
「修復する」
自分を修復する、関係を修復する・・
いろいろあるんだけど、その他の小目標もいくつか掲げてみます。
1・勝手な期待や妄想で自分をやたら傷つけない
2・自分を笑いのネタにしない
3・家族=協力者と思う。好き嫌いなどの感情に振り回されない
4・他人軸で生きない。自分がどうしたいか
5・自分を馬鹿にする人は許さない
1は昔っからの自分の悪癖です。
「悲しい」と思うほとんどは、自分が生んだ妄想によるもの。
「きっと〇〇だ」「こう思われてるはず」
そんな不安で自分を締め付けて苦しくする。
幼い頃に怖くて不安でしょうがないことがなんかあったんでしょうね。
結果、「あ、大丈夫だった」ということがほとんどなのに、その結果が判明するまでずーっと自分を不穏な妄想で傷つける。
これはもう癖なんだけど、そうはならない心へとゆっくり修復していきたいです。
2・自分を笑いのネタにしない
これは数年前から複数人での会合を避けたこととつながる。
「自分のことを話す」となったとき、人はどんな話題を提供するのでしょう。
友達が何の話をしても「ふんふん」と聞くことはできるけど、「聞いてよ、うちの職場でさ…」といういきなりの愚痴で切り出す、ということが自分にはできない。
「自分の日常は充実している」という話も、らしくないと思っちゃう。
なぜか「こんなダメな自分」を日常から切り取って披露する。
笑ってほしいのかもしれない。
誰かのジャッジを期待しているのかもしれない。
そのどっちの反応があっても少し嬉しくなる。
でも1日の終わりにひどく後悔することが増えた。
前までは恋愛の失敗をすぐネタにした。
2024年はそんなことはやめよう。
恋愛の失敗も喜びも大事なことは自分だけの胸にしまう。
3、年末年始といえば家族。
涙目のほとんどのゆえんが家族なのであって。
2023年はおおむね家族関係は穏やかだったのに、2024年のしょっぱなに「だから家族は嫌なんだ」とうっかり言ってしまった。
この3年ほどは「家族」という観念的なものにすごく抵抗していた。
「家族なんだから」「きょうだいで仲良く」
意味わかんないという反抗心をむき出しにしていた。
それまで家族のピエロでいた反動と思う。
だけど、きょうだいの人格にいちいち振り回されない方がいいのかもしれない。
親が高齢となり、その衰えをフォローする日々となった今、きょうだいがいるなら協力し合わないととてもやっていけない。
特に私は歳の離れた末っ子。きょうだいの頼もしさに支えられてきたことを改めて自覚した。
その支えを振りほどいて1人で頑張るなんてのは命を削ることに等しい。
きょうだいの人格を見つめすぎず、「協力し合う」第一優先で2024年はやってみようと思う。
ひび割れた関係もいくらかは修復できるかもしれない。
家族・きょうだい間で感情をさらけ出すと、修復不可能なとこまで行きかねない危機感も感じた2023年でした。
4も自分の長らくの癖。他人軸になってしまうこと。
末っ子でピエロと書いたけど、自分がどう振る舞えば家族を笑顔にできるか?が常に胸にあったですね。
年上のきょうだいは自分にとって怖い一面もあり、どうすれば機嫌を損ねず、しかも評価されるかばかり考えていた。
この癖は社会人としての自分にもしみついているし、恋愛でもそう。
「どうしたら相手の負担にならずに」「いい人でいられるか」とか相手の顔色ばかり見て、この数年の社会的な自分はまったく自分じゃなかった気がする。
自分の本心を露出させることは、誰か・何かに多大な迷惑をかける気がしてひた隠す、ということも多かった。
そんなことを頑張っていったい何が手に入ったかといえば、入ってないに等しい。
頑張るというのは、ある意味自分を隠すこと。
本当の自分以上の自分のふり、努力してそうなれた気がしても、たったいっときの輝き。
かかとのひび割れを素敵な靴下で隠すようなもの。
私のかかとに関してはほぼ修復不可能なんだけど、「ひび割れが痛くて本当は歩けないんだ」と言える自分は取り戻したい。
5は、まぁ「許さない」というのも物騒な話だけど、人を下に見てくるような物言いの人には露骨に嫌悪感示してもいいかなと。
それが職場の仲間とかきょうだいとか、協力しなきゃならない人なら、距離をとりつつ目的に意識を集中させようと思うけど、そうじゃない知り合いに対しては「もう帰るね」ってさっさと席を立つくらい潔くあろうかなと。
そんな嫌なやつももうあんま近くにいないけど、例えば年齢で人の行動を恥だとか無理とか言ってくるような人とはしゃべりたくない。
「そんな歳なのにぃ〜?」とか「もうあたしらこんな歳だよ?」とか、そう言ってくる人は28のときも35のときにもいた。いつだっている。
人間の老いを恥だとか行動制限の理由にする人に巻き込まれたくない。
そういう人の声をまともに聞くこともないのに、こっそり自分の物差しに採用してたようなこともあった。
そしてさらに自分に小さな傷をつけまくる。
修復なんてする必要もないかもしれない。
欠けたままの自分でもいい、本当はそう思えたらいいのかな。
今年もよろしくお願いします。