最近あんま頑張りたくないですね。
それでも生活しているかぎり「頑張り」を必要とされることはある。
私の今の生活では、夜勤と実家へ行くこと。
それ以外の仕事や家事は自分の中でルーティンとなっているので、自動でそこへ意識が向かう。
あと、不慣れな人と仕事をする前はそれなりに気合が入る。
前みたいなポジティブな気合じゃなく、「やだな〜(憂鬱)」とギリギリまで思ってるような。
頑張ったあとは、「よーしよしよし…」と、ムツゴロウさんみたいに自分をいたわる。
誰も褒めてくれないもの。
この「誰も褒めてくれない」というあたりを受け入れられたのは最近ですよ。
これまでは、「どうやったら自分は報われるか?」を考えたとき「誰か」という存在をあてにしていた。
それも間違いじゃないだろうけど、自分にそれは合わないと気づく。
自分をいたわってくれる誰か。
自分を真に理解してくれる誰か。
例えばすでに親しい彼女や彼ともっと特別な関係になるために、どう頑張ればいいのか。
そんな「頑張り」も疲れた。
ってか、そういう頑張りが報われる正しい行動なんて、ないんじゃないですかね。
職場の同僚との関係が、なんだか半年くらいぎくしゃくしている(と、思ってた)。
その同僚は去年ご家族に不幸があって、私の誘いに乗り気じゃなくなっているのはわかる。
そのうち心の距離も離れてしまったような。
私が無神経な言動でもしてしまったんだろうか…とか思ったり。
もっと若い頃ならそういうとき、ぐいぐい誘いをかけたり悩みを引き出そうとしていた。
年を重ねるにつれ様子見ができるようになったものの、もっと温かみのある何かできないものかと思いを巡らせてしまう。
特別に仲のいい人なのだから。
友達として、親友に近い存在として、「こうすべき」みたいなことが何かあるんじゃないか。
でもそれもやめた。
「考える」という頑張りも疲れちゃいましたね。
「特別な相手のために何か」というのは、いま疲れやすくなっている自分が無理して考え抜くことでもないんじゃないか。
今の私ができるのは自分の傷や不快感に敏感になること。
昔のようにむやみに行動するような賭けに出て失望のリスクを負いたくない。
だから、友達のぎくしゃくを解消しようとしたり、気にかけすぎるのはやめた。
リスクは負わない。自分を守る。
と!!
先日、その同僚友人とバッタリ会った。
「お茶しよう」と彼女から誘われた。
なんだこの奇跡。
彼女は彼女の事情で忙しくて、余裕がなかったらしい。
そんな話をじっくりできた。
これが「縁」なんでしょうかね。
頑張らなくても、通じ合えてる2人の道はいずれ重なる。
とはいえ、「特別な存在」ということに期待をかけすぎない。
特別ってなんだろうか。
親友にしても彼氏にしても、母や家族に匹敵するような存在と出会うことに期待しすぎてた気がする。
しかも自分が期待する「像」に目の前の関係を当てはめようと、やたら頑張っていた。
そういうことも含めて、もう頑張る気力のない今。
結婚とか親友とか、「特別な存在」を自分の世界に置くということ。
私にとってそれは、どうも自然じゃない。
一生の〇〇とか。
どうして人は(日本人は?)あんなに期待をかけるんだろう。
そんなリスクをなぜ負うのか。
この間、「おむすび」で橋本環奈演じる管理栄養士が、反抗的な患者に「(治療から逃げたら)一生後悔するよ」と言っていた。
「一生」ってなんて罪深い言葉だろう。
人が誰かに「あんた一生〇〇だよ」なんて脅していいのか。
一生寂しいよ・一生苦労するよ。
まぁ独身が長いと言われがちなことですが、誰の選択の先も未知じゃないか。
「心配なんだ」といういたわりとしても。
一緒にいて癒やされる人はいても、「わかってほしい」という期待が叶う人はいない。
と、最近思ってる。
自分の真の思いをとことん聞けるのは、この自分だけ。
だから自分対話アプリみたいなのできたらいいですよね。