映画「ジョーカー」の続編を見ました。

(写真はシネマトゥデイより)
ホアキン・フェニックスの最初のアップに、またあの痩せ細ったアーサーになっている!と衝撃を受けました。
最初のジョーカーを撮り終えて、アカデミー賞のころにはふっくらしてたのに、この役を前にしてまたハードな体づくりをしたのでしょう。
背中とかあちこちから骨が見えていた。
アーサーは第1作の終盤で逮捕されたので、今作の舞台はほぼ刑務所内。
あと裁判が始まったので裁判所にも護送される。
相変わらず貧相なアーサーだけど、その存在は神格化されていた。
ジョーカーの格好でロバート・デ・ニーロ演じる大物コメディアンに生放送で物申し、あげく銃殺。
その様子がお茶の間に流れ、TV局から逃げたアーサーが捕まるまでの間にジョーカーに自分を重ねて感激した庶民が街に溢れていた。
しかもアーサーはすでに複数人を殺害していたのだから、どんな言い分も境遇の独白も同情すべきものではないんだけど、そんな倫理観も制止もむなしく、アーサー/ジョーカーこそ自分達の代弁者だと熱くなる人が増殖して、このあたりで映画としての評価の賛否が激しく分かれてたようですね。
ただ映画としても、「アーサーはめちゃ愚か」ということが殊更描かれてたように思いました。
こんな男、信奉するに値しないよ・・みたいな感じで繰り返し愚かさが描かれてた。
確かに第1作のアーサー/ジョーカーはちょっと愛らしかった。私にとっても。
バカすぎるんだもの…
たぶん、アーサーのこれまでの人生は怒りと悲しみに満ちていて、あと理不尽な目にもどれだけあってきたことか。
だけど、それをうまく言語化できる人じゃない。
自分の置かれた境遇を社会問題とつなげて怒りに変えるとか、改善に向けての行動に何も結びつけない・つけようとしない、結びつけられないのか?というあたりの幼さがすごくよく描かれててたんですよね。
自分がつらい目にあってるのかどうかすら直視してないような。
だからコメディアンになる妄想に逃げる。
ヒーローになる妄想も。
それはいつしか現実と区別できないほどの病的なものに。
それがまた悲しくて・・
こういう人が怖いのは、「感じる」というところを一気にスルーして「怒り」にすぐ結びついちゃいそうなところ。
そうなったら行動は早い。銃を手に入れたらすぐ撃ってみたりする。危ない!!
アーサーは刑務所内で生活してても相変わらず何も深まってないように見えたんですよね。
ただ、囚人仲間からも崇められたり、街の熱狂的なアーサー支持者の声がムショ内のTVで流されたりもするからか、一見かっこよくなっちゃってんですね。
たばこの吸い方がわりかし渋くなってたりとか。
そんで無口だから、拘留中の女(レディー・ガガ)からポーッとした視線を受けたりする。
さすがのアーサーもこのモテ感で自意識が芽生えたらしく、「自分見られてる」とかに敏感になって、それっぽくレディー・ガガに近づくくらいはできるように!
この2人はどっかでヤっちゃうだろうな…と感じさせるほどの惹き合いで、ただ、そうはいっても囚人。
そんなチャンスあるんかな・・とか思いながら映画見てましたね。
ちょっと驚いたのが、「フォリ・ア・ドゥ」はミュージカルっぽい作りだったこと。
それでレディー・ガガか!と。
ホアキンの歌声がまたいいんですよね〜
ヘタウマなしゃがれ声が切ないのなんのって。
第1作もアーサーがみじめすぎて愚かすぎて、これはコメディーじゃないのか?と思うほどでしたが、第2作はコメディー要素がわりとはっきり感じられました。
レディー・ガガと夫婦漫才やってんですよね。妄想で!!
でもこのシーンは切なかった。
ジョーカーとガガのコンビいいじゃん!ってすごく思ったけど、現実としては6人も殺した男がこんな楽しいステージに立つことはない。

だけど、妄想上のジョーカーは「間」とかバッチリなんですよね。
レディー・ガガにマイクを奪われて、「僕もステージにいるんですけど?」って置き去りにされたときのトボけ仕草はちゃんとコメディアンしてるというか。
レディー・ガガも相当ヤバい役でしたが、ああいう女いそうだなって思った。
セクシーに物憂げに振る舞うけど、「あなたが欲しい」、それ以上でも以下でもないように見えた。
男の威光を自分のものにしたい。
「私はあなたと山を築きたい」
レディー・ガガ演じるリーが何度もアーサーに言う言葉。
これはいくつかの考察を読んで初めて知ったことですが、とある目的の比喩らしく。
第2作の目玉展開といえば、アーサー/ジョーカーの裁判。
全米注目の裁判で、傍聴を求める人で溢れかえったりする。
リーも「見に行くわ」とアーサーと約束したので、もうアーサーがそわそわしちゃって(笑)
渋い自分を装ってても、こういうとこでモテなさが出ちゃう。
リーの姿を見つけると、授業参観で母親を振り返る子どもみたいに何度も傍聴席に顔を向けて、時にはリーだけにこっそりメッセージ送ってんですよね。
(次回はもっと前に来て!)みたいな。全然こっそりじゃないやつ。
なんの映画だよ!って、壮大なんだか卑小なんだかこのあたりがジョーカーのおもしろいとこで。
みんなお前を見てんだから、世紀の裁判。
なんでこっそりが成立すると思うのか、こんなにバカだなぁと思いながら愛着も芽生えるというのは寅さん以来です。
あとジョーカーのおもしろいとこは、荒唐無稽さがナチュラルに描かれるとこですかね。
アーサーがジョーカーのメイクで証言台に立ったりとか。
なんで許されるんだよ。
このメイクをしたほうが饒舌になれるからと。
そんであちこち動き回ったり、座り込んで頭を抱えたり。
だけど大仰さを許してこそ、確かに事件の核心・アーサーの気持ちがぽろぽろと語られる。
この第2作での荒唐無稽度No.1はレディー・ガガが「来ちゃった」とこですかね。
独房に来ちゃった。
お金や権力があれば可能なんだろうか?
いや、絶対なしだろう。でもアメリカなら…?
考察ではアーサーの妄想説も見かけました。
でも妄想にしては、第1作のテッテレーみたいな種明かし映像もなかったし。
そのテッテレーの妄想で勝手に恋人として描かれてたアーサーの隣人女性も証人として立ってましたね。
アーサーの同僚も来ていた。低身長のあの優しそうな彼。
この彼の証言で、アーサーはかなり揺さぶられた。
自分は誰から見ても透明人間か忌み嫌われる男と思ってたのに、自分を肯定的に見つめるまなざしがあった。
それを救いとして受け入れるには遅すぎたというか、自分への愛を自分こそが拒絶していたことに気づいたんじゃないだろうか。
アーサーから一気に脆さが溢れ出す。
その証言を見ていたリーは、心が離れた。
私が個人的に思ったのは、男女の惹き合い、そのスピード感ってやっぱり当てになんねぇなということ。
アメリカって特にスピーディー展開こそ最上の愛みたいに描くけど、ヤりたいだけというか、そこまでの過程をいかにドラマチックに描くかに命をかけていて、後半はあっけなく別れが描かれたりする。
日本みたいに、最初の出会いの通じ合いこそが運命性・永遠性の象徴って感じじゃない。
あと女は「こうでありたかった自分」が投影された人を好きになるんだろうかな。
女が自分より社会的地位が上の人とか、芸術性・表現力のあたりで輝く人を好むのは、女である以上越えがたい壁を突破して躍動してるような人に、自分の未開の何かを託してるんじゃないかと思うことがある。
そうであるなら、リーにとって「脆い男」は不要ということか。
でも並の女なら、愛する男の脆さを目にすれば、一層愛しくなるもんじゃないのかとも思いますけどね。
またアーサーも、自分の主役性を奪うリーへの潜在的な不安というか予感が妄想に表れる。
夫婦漫才でも、いつの間にかリーのオンステージになっちゃうんですよね。
それがいつも耐えられないアーサー。
いいよいいよ、君の表現力も最高だよ…とはあんまならない。
アーサーは表現者としての相棒を求めてたわけじゃない。
「あなたは最高よ」っていついかなる時も讃えてくれなければ意味がない。
男もまた母親レベルの肯定感と包容を相手に求め続けている。
アーサーは母親の愛に飢えてたので特にね・・
最後はちょっとショックでしたね。
ここには書かないけど、パート3はもうないですよって宣言でもあるのかな。
待ち望んでも無理ですよって。
第1作が終わって、アーサー/ジョーカーの余韻が膨れ上がってしまった人は多かったと思う。
私もかなり余韻を引きずりました。
だから、2作でまたアーサーと会える!という喜びは少なからずあった。
それは社会的にいい心持ちじゃないかもねと、制作側もそんな人を諭す仕掛けを映画のあちこちに散りばめてたように勝手に感じたりした。
とはいえ、私は第2作の夫婦漫才が結構な余韻として残ってますね。
夢でしかないあの時間。夢だからこそのきらめきがあったんですよね…