綿矢りささんが好きです。
「勝手にふるえてろ」から「インストール」「蹴りたい背中」とさかのぼって読んでみても、書き出しの疾走感にいつも心をつかまれます。
今日読み終えたのは「ウォーク・イン・クローゼット」
綿矢りささんはどこかで何か変化があったようで、いわば少年っぽさが特徴的だった主人公が、どこかから「女」を強く打ち出すキャラクターになった。
それも「選ばれたい女」。
きっと綿矢さんご自身は少年っぽい一面もあるはずで、でもあの美貌。
「女」として見られれば見られるほどに湧き上がる優越感と嫌悪感を、嫌というほど感じてこられたのかもしれない。
書き出しの疾走感はやっぱりどこか少年っぽくて、だからぐいぐい読んでしまうのです。
男の前で着る服、女友達用の服、1人で都心に出るときの服。
用事に合わせて着る服を変えるのは女だけだろうか。男性もそうかな。
その昔、合コンの前にわざわざ服を買いに行ってたのは、前シーズンに買ったはずのふわふわニットがいつの間にか「自分色」になり、新品から漂う「女子感」をチャージしに行くため。
選ばれたいのだから。
つまりはそういう目的。
選ぶ、選ばれる、見つけたい、見出されたい。
綿矢さんの小説はいつからかこういう男女が主役となり、そこに命をかける薄っぺらさへの痛烈な批判が全体に漂う。
それでいて自分こそが「選ばれたい」1人で、痛い虚栄心や敗北感、屈辱のあたりも主人公を通して吐露され、そのリアルさに自分を重ねずにはいられないのです。
選ばれた私、選んだ俺、選ばれないほうがましだった夜。
「選ばれ」の中の、一体どこに幸福があるというのでしょうね。
誰かが自分に触れてくるまでの空気感、そこまでは確かに幸福だった。
抱きしめられても太もも撫でられても、そのタイミングや伝わる熱で、幸福な選ばれなんかじゃないと悟る。
相手が本気じゃないから?
「選ばれ」の中において本気を求めるとか、一体なんなんだろう。本気ってなんだろうか。
綿矢さんのストーリーって、最後は不思議と友情が描かれます。
男女の恋愛未満の信頼関係、敵同士だった女子のわかり合いや、女の友情の固さ。
友情こそが選ばれとは無縁で、身も心も開ける。
どんな背格好でも服装でも、親しみ湧いたのはもっと共通する何か裸のとこ。
友達を選ぶ人っているのかな。いたとして、それは楽しい友情かな。
綿矢さんの小説では、ふわふわニットを着た自分が男性に抱きしめられる幸福も描かれつつ、せっかく頑張っておしゃれしてきた服をろくに褒められもせず脱がされることの虚しさも表現される。
そして「やっぱり今日は…」と女性が抵抗を示すと、「泊まりってなると女のコはいろいろあるもんね」と言う男性。「女のコだから抵抗するんじゃなくて人間として…」と心の中でつぶやくも、彼に届きようもない。
恋のはじめの男女だけが、関係構築すっ飛ばして体だけで成立するってもんでもないだろうと、あとでわかってきたりするものの、体の一体感はすべてを超えると期待する。
「選ばれ」にいち早く到達できた気分にもなるのだし、いち早い所有も。
本当は男女も誰しも、こうは面倒くさく生きてないのかもしれません。
自然に好きな人ができて、自然に交際に発展する。
「選ばれ」とは無縁の関係性が発生したら、どれだけいいことかと思うのに、なんか挑戦してみたり、けしかけるのはこの自分かもしれなくてね。
主人公の早希は男のためにするおしゃれが好きなだけじゃない。
買った服を自分の手で丁寧に手洗いして洗剤にもこだわって、休日一日使って仕上げる、そうしていい風合いになった洋服もこよなく愛する。
クリーニングに出せばいいところを、節約も兼ねて手洗い。
そういうのってわざわざアピールしないと、誰にも届かないような時代かな。
早希はこんな休日の過ごし方、合コンではマイナスイメージになるとむしろ隠したり、うっかりしゃべってやっぱり後悔したりする。
今一体どんな時代?どんな男と女が恋するというの。
選ばれの延長が恋愛なんだったら、友情に信頼を置いてそれで生きるんでいいやって、思う人が増える一方の時代かな。
綿矢さんは時代をすごく見つめている。
今という時代の自分、男女、変わりゆくものと変わらないもの。
時に辛辣だけど、よくここまで見つめる!と共感しきりなのは、自分の中のもやもやが著されてるように思うからかな。
他の本も読んでみよう…と、手に取って1ページ1行目の疾走感ですぐ心を持っていかれる。ぜひ本屋でめくってみてほしい綿矢さんの本です。