映画「トーク・トゥ・ハー」

ついにネット視聴民の一歩を踏み出しました。
U-NEXTに加入。

アマゾンプライムとNetflixも迷いましたが、U-NEXTは書籍や雑誌も読めるという。
なんせ1ヶ月無料お試し。
でも「全裸監督」はNetflixでしか見れないんですよね〜。
またいずれ検討。

 

もう1個のブログで「ジョーカーを見たい」と書いたからかどうなのか、「U-NEXTならジョーカー無料で観れます」という広告が出てくるように。怖い!!
U-NEXTにまんまと引き寄せられたものの、初視聴は「トーク・トゥ・ハー」でした。

前回リンクを貼った方のブログで触れられてた映画で、つい最近も有名な人(クドカン?違うかも?)がこれについて語ってた気がした。
すごく評判になった問題作というのはちらっと記憶にあるような。
スペイン映画なのですね。

「なんでこんな物語を発想できるんだろう?」とそればかり考えてました。
アカデミー賞で脚本賞を受賞したそうで。やっぱり…。
とにかく「珍しい」が散りばめられてて、まず主要な女性2人が昏睡状態になるなんて、そんな物語はほかにないでしょうね。
しかも女性のうち1人の職業が闘牛士。珍しすぎる!
それにスペインの文化を美しく目にできたことは貴重なことでした。
男女4人の物語ですが、1人の男性は介護のプロ。もう1人はフリーライター。
始まりはライターと女闘牛士の恋の話です。

本当に西洋の方というのは情熱的で、すぐキスしちゃうんじゃないかと余計な感情でハラハラしてました。
(キスしたっていいけど)
最初30分は、ヨーロッパの映画にありがちな「わけのわからなさ」が漂っていて、私はこの作品の名作感にピンと来ないままかも…と不安になりますが、1時間になる頃には「え…?え…?」と物語に引き込まれている。
結果、最後までずっと「え…?え…?」の連続。
あれこれ珍しすぎるから…。
つまり想像がつかない・つけようがない物語。
なのに「ありがち」も散りばめられてて、そこがまた切ないのです。

男女4人のストーリーなので、誰に感情移入するかでこの物語の見え方も感想も全く変わりそう。
私は主役ともいえる介護士のベニグノに惹き込まれました。
どこか浅利陽介さんに似てて、優しげと同時にうっすら気持ち悪さがあり、自信なさそうに見えて余裕たっぷり。
おどおどしてるかと思いきやむちゃくちゃ大胆なことをしでかして、危険度と純粋度は紙一重、そんな男。

ベニグノは、アリシアというバレリーナの卵だった子の介護に4年携わっている。
その手つきもメンタルも慣れたもので、それはかつて20年、母親の介護をしてきた経験があるから。
アリシアが生理中でも動揺などない、時にはアリシアの内ももマッサージ。
そこへアリシアの父親が入ってきてもベニグノはマッサージの手を緩めない。
別にやましい気持ちなどないことの表明?
でも父親はその手つきに意味があるのかないのかを見極めなくてはならない。
そこでベニグノに「君の性の問題」、その問いをぶつける。

「どっちかといえば男性が好きです」

・・・・
「失礼な質問ぶつけるから嘘を言ってやった」とかってベニグノは同僚にこぼすけど、見てる側としても「本当に嘘?」と思えるような、この俳優さんがすごいうまいんですよね。
この映画全般、「生死」以外はなんにもはっきりさせてないように見えました。

 

これ2003年の映画で。
スペインでは「人権」がもう当たり前のように横たわっている。
昏睡状態の患者、裸の患者、過去の恋人、現在の恋人、仕事仲間、在監者(囚人)、そして近所に住むお年寄り。
当たり前の優しさ、ただ存在することの肯定感がずっと横たわってるのに、それを前面に出そうともしてない。
日本だとすぐ前面に出してくる、あの押し付けが一切ないと感じました。

 

ベニグノはアリシアの父親から、「確か4年前は童貞だったな?」と確認される。
介護士として自信に溢れてたベニグノの弱さがここでうっすらあらわになり、4年前に自分の部屋から見えるバレリーナ教室にただ釘付け状態の、まだ何者でもなかったベニグノの回想。
窓から見えるのはレッスン中のアリシア。
アリシアが教室を出る様子とかもずーーっと見てた。
ある日話しかけるチャンスが巡ってきた、その接し方とかもちょっとキモい!
そのキモさが悲しいぃぃ…と切なくなったのもつかの間、やっぱこういう手段に出ましたか…という家宅侵入とは言わせない正当手段(アリシア実家のメンタルクリニックに通う)
でもプチ窃盗しちゃってるし(アリシアの髪留め)
恋する人はみんなキモい・おかしいとも言えるかもです。誰だってそんな濃厚な感情は経験済みのはず。
ガッキーと松田龍平だから美しいわけじゃない。
松田龍平が髪留めをカチカチして妄想してりゃ絵になるってんでもないでしょうに。
いや、恋は誰にとっても美しいとも言える?思い詰めるベニグノだって見方を変えれば…。

そんなベニグノがなんと、交通事故で植物状態となったアリシアの介護担当に。
20年母親介護というその腕の確かさを買われて。
また友人マルコの恋人で同じく昏睡状態になったリディアと接するときなども、仕事人として・人としての輝きが放たれる。
どこか濃厚すぎて歪んでるベニグノからあふれる自信と頼もしさに、私はちょっと感動しちゃいました。
どんな人にもこんな輝かしい一面があるものかと。
しかしそれは、昏睡状態の相手にしか発揮されない輝きかもしれない。

 

映画は優しさにあふれるけど、むやみに優しいわけじゃない。
ベニグノをただの慈悲で世に放つわけにいかない、そんな罪を犯したベニグノ。
でもベニグノの最後に涙を流すマルコという友人を持てたのは、ベニグノがただ罪人であったからじゃない。
友人の力になろうとする一面。
愛のためになんでも頑張れる。人をそこまで愛するという一面。
ただ、どれも「社会性」という枠に収まらなければこの世では生きていけない。
一見情熱的で寛容的なこの映画の至極きちんとした線引きに、ぉぉー…という感動がありましたね…。

魚座っぽい物語だなぁと思うと同時に、射手座っぽいなぁとも思いながら見てました。
というか魚ー乙女という猛烈な献身ラインに、射手座がツッコミを入れてくるような物語。
「誰かのために」という世界以外にも、人生には「自分」を癒す旅とか文化芸術も必要だよ…。
その文化芸術にベニグノは煽られたとも言えるけど。。

あちこち旅してガイドブックたくさん出してきたマルコ。
刑務所内でそのガイドブックに心が慰められるベニグノ。
愛にも生きるけど女闘牛士としても生きるリディア。
バレリーナをひたすら夢見るアリシア。
「そういう男がいた」「女はそうして生きてきた」という物語だったのかな。
正しいとかも何もない。
なのに最後、「生」がどわーっっと。
しかもちょっとだけコミカルに見えた。あそこだけポップなCMみたいなキュートさ。
それが泣き笑いというかなんというか…。
見てない人には何のことやら…ですね。

 

この映画の珍しさは、バレエとかボサノヴァ、サイレント映画などが多数挿入されていることもあります。
あと闘牛のシーンはやはり美しかったです。
すべてがスペインの文化芸術というわけじゃなく、ドイツとかブラジル?
なんか思い出したのは北野映画「Dolls」の人形浄瑠璃。
私は確かにあの映画で文楽に興味を持ち、いっとき足繁く通ってた。
映画の中にさらに芸術が挿入される効果ってすごいなぁと思いました。

 

感想を述べといてなんですが、私はヨーロッパ映画にちょっと苦手意識があり、それはエロやグロをダイレクトに突きつけられる気がして。
美しい人の口からいきなり何か吹き出したり、血の容赦なさとか、なんたって愛が高まったときの激しさ。
「見たくないもの・音」を見せてくる、あのぐにょっとした感触が怖くて怖くて。
ホドロフスキー監督の映画とか、見たい!けど怖い!でバクバクし通し。なのに号泣。
ヨーロッパ映画って、なんかそういうパワーがありますね。
「トーク・トゥ・ハー」では結果、目を背けたくなるシーンはなかったですが、眼に映るものがやたらエロい感じはありました。
これはそう見せているのか、そう捉える私がエロいのか?なんなら全部エロい。考えすぎ?
その悶々に集中力削がれるのも苦手というか。いちいち怯えたり、あれこれ克服しなきゃならないです。
「見たくないもの」・・それも魚座っぽい感じ。魚座30度期の課題?
U-NEXTで慣らしていこうと思います。

 

私はベニグノに今でも揺さぶられてると言える。
ベニグノぉぉ〜と愛おしい気持ちになった直後に、ものすごい嫌悪感が湧いたりとか。
愛とかいって、やっぱ単なる支配じゃない?
肯定も否定も確かめられない相手にいくら自分のすべてを捧げたって、それは暴力にもなりうる。
そう思ったらキモいという感慨、それでよいという気もするし、ベニグノみたいな男が輝きを放つ瞬間のことを忘れたくない気もして、揺れている・・
でもね、愛と支配が混同するがゆえの悲しすぎる話は現実にもたくさんあってその報道目にするたびに猛烈な怒りが湧くのです。
支配のない愛情関係は、もしかして同性間にしか存在しないんじゃないか…なんて。親子以外。
んなことないか?
人の映画の感想って、全然違う視点でおもしろかったりしますね。
またあれこれたどってみます。

 

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