先日申し込みをした夢解きスクールでは、いくつかの映画に沿って講義が進められていきます。
例えば「ハウルの動く城」と「ツレがうつになりまして。」
これはちゃんと見たことなかったので見てみました。
それで忘れないうちに感想をメモということで。
「ハウルの動く城」(2004年)
ハウルはこの間、日テレで放送されてましたね。
ジブリ作品はどれもふわっと見てふわっと感じてきた気がします。
はっとするほどのメッセージを、受け取れてんだか受け取れてないんだか、そもそもはっきりしたメッセージなどあるものか…と思いながらも、どこかで泣いちゃうんですよね。
宮崎駿監督の作品は、どれも子ども心がくすぐられます。
万物に命が吹き込まれてたりするところにいつもワクワクする。
ハウルは、火のカルシファーと・かかしのカブにも感情移入しちゃうし、子どもが本当に可愛く描かれますよね。マルクルの声は11歳の神木隆之介さんとは!
ハウルには原作があるということで、わりと忠実に描かれているものの「戦争」という原作にはない要素を入れたために後半の収拾つかなくなり…ということが制作時にあったようです。
「何をどう感じればよいのか」というのは人それぞれに委ねられてるとことは思いますが、私が思ったのは「火地風水」描かれてるっぽいなあということ。
火:カルシファー
地:城
風:ハウル
水:ソフィー
だからなんだって話ですがね。
ハウルが「動く城」となるには、火であるカルシファーの原動力が必要なのですね。
でもいつも言い訳ばかりで、極力省エネで生きたいらしいカルシファー。
そんなカルシファーも褒められて調子に乗れば、動き出す。
しかしなぜ動くかというと目的が発生するから。
その目的は大体ハウルが決める。風が吹く方向を決めるってことですかね。
ハウルが城にいないときに決まって緊急事態が起き、激しい地殻変動が起きたりもしますね。
そこでソフィーがどこに向かうかの英断をしたりします。
ソフィーはいつでも「愛」のための決断。ハウルを愛してしまった。
ところでこの物語の大きな特徴としては、ソフィーが老婆になってしまうところですね。
荒地の魔女に姿を変えられてしまった。
若い少女時代は自分に自信も持てず内向的だったのに、老婆になったらショックは受けるものの「よーし!」と急に開き直る。この描写はとてもリアルと思った。
若いうちは、自分の若さがどれだけ強みであるかにまったく気づけないもの。
年取ってからの「失うものなど何もない」というメンタルはとても楽だし、私も老婆の姿にいっそなったほうが、ハウルレベルのイケメンにぐいぐいお節介やけると思う。
宮崎監督すごいなと思ったけど、原作は女性作家なのですね。
そしてお年寄りへの優しさです。
ソフィーも老婆なのに、荒地の魔女がもっとひぃひぃ階段上るとこ、「あんた頑張りなさいよ」ってソフィーが待ってあげてる描写とか感動しちゃった。ああいう物語ってほかにありますかね?
しかも、どんだけ偉い魔女か知らないけど、あんな階段を老婆に上らせるなんて(こんなとこ信用ならない!)と怒るソフィーの視点がすごい。令和の今じゃ後退しかけてるように思ってしまう最近のあれこれです。
あと「マルクル、ちゃんとおばあちゃん見ててね」って3回くらいソフィーが言うところありますね。
お城が壊れて周りガタガタに崩れた中で、おばあちゃんをないがしろにしない。たとえ自分に老婆の魔法をかけた荒地の魔女なんだとしても。
どこのお母さんもそうじゃないかと思う。どれだけ嫁いびりされたとしても、おばあちゃんを置き去りにはしないはずで。
みんなどこで泣いたかってこれまた人それぞれと思うけど、私は荒地の魔女がおばあちゃんになってからの表情にやけに泣けました。
そんで声優陣がまた倍賞千恵子さん、美輪明宏さん、加藤治子さんと、味があってねぇ…。
ハウルよりソフィーが主人公に思える。ハウルはちょっとわかりにくい存在。
「こじらせたイケメン」以上の何かがあったのかなぁという。
でもキムタクが声を務めたことで、ハウルに絵以上の魅力を感じたのは確かにある。ハウルの成長物語でもありそうですね。
そんで少年時代のハウルが美しかったな。カルシファー誕生のシーン。
あとかかしのカブの恋にもジーンときた。
一番感動したのは老婆のパワーと愛情深さ、人生を本気で楽しめる年齢ということですね。
あと戦争がひとつ終わるところ。終わらせた加藤治子さん(サリマン)。
全体的なメッセージ性はよくわからないけど、あのスケールや表現、そして確実につかまれる素朴&ピュアな描写が宮崎作品なんだなということは改めて感じました。あのピュアさはほかの作品でなかなか感じられるものじゃないです。
「ツレがうつになりまして。」(2011年)
今でこそうつ病の人に「がんばれ」と言うべきじゃないことは常識的になりましたけど、このころはまだ一般的じゃなかったんでしたっけね。
でも細川貂々さんの本が出版されたのが2006年で、2011年はそのころより多くの人が「頭ではわかってるけど」というとこまではいった気がします。私もこのころに知り合いがうつ病になりました。
堺雅人さんが本当にうまいです。気分が晴れやかになった日と、ふさいでる日の境目とか、ちょっと元気になりすぎじゃないか?と思ったら、案の定医者に「症状が振り子みたいになりますから」と言われて即落ち込むとことか。
宮崎あおいさん演じる晴子は、夫である「ツレ」がうつ病と診断つくまでは、「風邪をちゃんと治そうとしないから治らないんだよ」とか結構言ってしまってた。
でも「頑張れ」とは言わないよう気をつけたり、「仕事辞めちゃいなよ」「辞めないと離婚だよ」って早いうちから夫のうつのもと(仕事)を遠ざけようとする健気さ。
基本明るい晴子でも、その明るさを相手に合わせてコントロールしたり、それは夫の前じゃ難なくやってみせてるようで、本当は繊細に心にさざ波たってるんですよね。漫画家としてうまくいってるわけじゃない晴子の不安を押し隠す表情も魅力的でした。
あと同じうつ病患者の吹越満さんの存在感がすごい。目にクマがすごすぎて絶対死ぬだろうなと思ったけど死んでなくてよかったです。
それよりノーマークだったあのさわやかな青年が死んでしまったとこがとても怖かった。
「治りかけが一番危ない」とはよく言われますね。
「2人で乗り越えていく」というストーリーは一見とてもハートフルに思えるけど、心の負担も実際は2倍なのだと思います。
「相手に申し訳ない」「自分はなんにもできてない」というところが浮き彫りになるたび、いつも布団でしくしく泣いてるツレ。
それを吐き出せる相手が自分にいたんだな…という幸福を感じられるのはずっとあとで、そう思えるまでどれだけ日々が壮絶だっただろうということが痛いほど伝わる映画でした。
ツレを見守る晴子としても、いつも「大丈夫だよ」というメンタルでいれるわけがない。イライラだってぶつけるときがあるのです。すんでのところで最悪を免れる日々。
この社会において何が大事だろうってことは、そりゃ「自分の命・人生」と答えが出ているようでいて、そこに目をつぶってる人もまだ相当多いように思う。
映画では、今の時代なら即パワハラと言われるようなシーンがあったけど、平成中期までは「あるある」だったと思う。根性論とか、「みんなも我慢してるんだ」というムード。
今はあのころより地獄から抜け出すハードルが少しは低くなってるでしょうかね。どうだろう。
「うつ病は風邪みたいなもの」という言葉をそのまま受け止めるなら、「どんな人がかかりやすいか」ということでもなく、誰もがかかりうるのだとは思う。
でも、「ちゃんと」が自分にとって苦しくなって、ちゃんとできないから自分を責める。うつの前はそういうシチュエーションが多いんじゃないですかね。
「その”ちゃんと”は本当に大事?」と問うたところで、まともに考えられなくなった状態。
私は時々人の「ちゃんと」が怖くなる。
そんなちゃんと、うっちゃればいいじゃん!とどれだけ叫んでも相手には通じない。
叫ぶ私がキョトンとした目で見られて、そのうち邪悪なものを見る目つきに変わる。
私のうっちゃり提案は、この世のことわりからしたら信じられないほど無責任なのだろう。
満員電車が正しい軌道、それしかありえなくて、「降りちゃえばいいじゃん」なんてとんでもない。
親の世話、家族の絆、夫の要望、母としての責任、男としての責任、社会的体面、同期との協定、昔から少しもブレないキャラクター等々。
たまたま心の風邪にならなくても、身体のどこかに不調が現れる人もいます。それはうつ病とどこか近くて、仕事を辞めないと治らないものもあるだろうし、家事や育児を行政や第三者に依頼するなど、背負い過ぎたものを軽くして初めて体調不良も軽減されたりする。
「助けを求める」ことすら自分に許してない人もたくさんいますね。
「弱い」と社会からみなされる恐怖そのものがまるで病で、弱者になりたくない気持ちと心身の不調は無関係じゃないと思う。
「ハウル」のソフィーは老婆になってこそ「よっしゃ」と気合いが入った。荒地の魔女も着飾らないただの老婆になってからのほうが図太いし何も恐れない。女性は潜在的に弱者だから男性よりしなやかなのかな。ポキッとなるのは男性が多い。
奇しくも女性の臨機応変な知恵が光ってた2作品でした。といっても男と女の話ではなく、「みんな」の顔がはっきりするのはピンチに陥った時こそ…という話。委ねられる誰かがいるなら委ねたほうがいい。
仕事も家のことも1人で背負うと決めたそばからピンチが迫る状況は、昔からこうして繰り返し描かれているのですね。