「流星ひとつ」

たまたま手に取った本に「呼ばれた」と感じるような一文に出会うことが、どうも多いみたいで。

軽めに言えばタイムリーっていうか。
「まさにこんな風に感じてたとこ」
っていうシンクロを、読書中によく体験する。
音楽も、たまにそうかな。

ゆうべは、どうしたことか
「私はずーっと寂しかったのかな」
ということを寝る前にふっと思い出し、
物心ついた時から両親が共働きだったからかな、とか、
でも一緒に暮らす祖父母になぜ心を開けなかったんだろう、とか
きょうだいたちとは7つ以上も年が離れてたし、とか
そういえば小学校低学年の頃、
すぐ近くに住む幼なじみが家に帰るのを「帰らないで!」と玄関に立ちふさがって必死で止めて、
わんわん泣いたことが思い出されたりとか。

どうしてか今になって、あの時の埋められない寂しさが、
この年になってももがくいろんなことの心当たりとなって、
初めて「そうだったのか…」なんて、
小さな小さなあの頃のわたしの悲しさに気づいてやれた気がした夜だった。

そんで実家の布団の上で少し泣けてもきたんだけど、そんな感傷にお構いなく、私の膝上でちょうどよさそうな寝床ロケーションを探ってくる三毛猫。


・・・・・よし。

そういえば、初めての猫とのふれあいは、小学1~2年生くらいだったっけなぁと思い出す。

家に帰っても両親はいないし、
祖父母はいるんだけど、たまにお菓子もらったり、なんとかごっこのなんとかになってもらったりして遊んだ記憶もあるんだけど、時々一人で玄関のポーチに座ってた。
あるとき私の右斜め前に、きちんと両足そろえた成猫が座ってて、
「おや?」
と、猫にでもなく、自分の驚き確認のつもりか、わざと声に出してみたりした記憶もある。
怖いとか恐れる気持ちは全くなく、家の中に舞い戻ってパンかなんかあげてみたら、狙い通りみたいに嬉々として食らいつき、そこから猫は毎日うちの前に来るようになって、すっかりうちの猫として遊んでたのが、猫を飼ったきっかけ。
そこから猫との付き合いは長く
今は7代目&8代目。

猫というやつは本当に「だいすき」をぶつけてくる生き物で、私がどんな身なりであってもぐうたらしててもアホなミスおかしても、そこに凶暴性さえにおわなければ、
「すきですー」を伝えに来る。
たとえ私が一気にしみしわだらけの顔になったとしたって、体重の増減が著しくなったとしたって、猫にとっては私から離れる要素にはまったくなりえない。
そんなことがとにかく心強く感じられて、
じーーん…と来た夜でもあった。
母もまた、そうであるなと。

もちろんきょうだいだってそうなのだけど、母のその揺るぎなさ、というか本当にまったくそんなの嫌悪に何らなりえないという確かさは、ああ別格だろうなと、ふと思ったゆうべ。

沢木耕太郎さん著「流星ひとつ」を、少し前から読み始めている。
藤圭子さんがなぜ歌手活動を引退することにしたのかを、8杯のお酒とともにインタビューする沢木さん。
1979年の記録で、
31歳の沢木さんと28歳の藤圭子さん。
それがなぜすぐに刊行されなかったか、その思うところは後記に綴られています。

藤圭子さんがどういう方であったか、
「たぶんこんな方」というイメージは、奇しくも亡くなられてから多くの人の中に印象づけられたものだと思うけど、
「えー、そうだったんだ…」
とも思うし、
「やっぱりそうだったんだ」
と思った部分もある。

「やっぱり純粋な人だったんだ」と。

今日読んだ続きは、小さな虫にもすごく怖がる藤圭子さん、のとこから。

虫が怖くて蚊からだって逃げるし
鳩も、鳥がとにかく怖い。
うさぎ年の藤圭子さんに、
「あなたという、うさぎが馴れたのは、お母さんだけじゃないのかな」
と、沢木さんは言う。

藤圭子さんは、でも
「ひとつ、いる」
と言う。

それが猫。

藤圭子さんが猫のことを思いだすとき、お母さんのことを思うとき。
それは私が簡単に、親しげに寄り添えるものじゃないとは思うけど、誰にでも心開いて信じられたわけじゃなかった藤圭子さんが、愛するものと確かにつながってると感じられていた、ようなそのエピソードは、ゆうべの感傷を軽んじそうになった自分の中の小さい小さいわたしの存在を無視してはいけないよという警告に感じられて。
悲しさは、しっかり感じるべきなんだと、電車の中で喉もと目頭熱くして読んでいたのでした。

「誰も人のことなんて本当にはわからない」

藤圭子さんは、そう言う。
それは、でもそんなに悲しいことでもないように思える。
わからないのが当たり前なのに、万人に通じるような何かに当てはめようとすることのほうが悲しいのだろうな。
それに当てはまらなければ、
「嘘っぽい」「隠してる」
「おかしいのかな」

芸能人は本当に大変だと思う。
歌とか声とか、「どうして…?」と感嘆するようなものを生まれ持っている人は確かに世の中にはいるけど、いろんなことが背中合わせのギリギリさの中で生きてる人も多そうで。
それは運命とか、そういう宿命みたいなものもあるだろうけど、「枠」が取り外される環境にあったかどうかということもあるんじゃないかなと思える。

「枠」を一生外さない生き方を選ぶ人もいて、でも外さざるを得ない生き方の人もいる。
外れれば、そこから思ってもみないようなキラキラしたものが出る一方で、その流れ出したものをしまうことはもうできない、さぁどうする?っていうとこからが人生本番みたく歯車回り出したりするのだろう。
だけど生活の安定感のことを思えば、「枠」を取り外すことを後回しにせざるを得ない人生だってある。

「枠」が外れて、そこから才能が生まれるのだとしたら、その才能を拾われるところが芸能界だとして。
でも芸能界に入ったら、
「好きなこと」を追求してた純粋な日々は失われていくの?
そしたらどうすれば純粋に好きなことにただ邁進できるのだろう。
「誰かのために」って心から思えることが正解?
才能ある人が偉いの?
でも讃えといて、神格化しといて、少しのつまづきで足引っ張るんだ?
そういうのが、よくわからない世界です。

誰だって大人になれば純粋のままじゃいられない。
それはよくわかっているけど、
本当に純粋のままでいられる環境はこの世にはないのだろうか。
誰かと本当の愛を交わせれば、
その束の間の時間は純粋と呼べるものなのかな。

猫だってもしかして、
「餌くれるし、ぬくいし」
ってな魂胆で布団に潜り込んできてるのかしら…。

・・・もしそうだとしても
「小さい寂しい子たちの隙間を埋めに行っておやりよ」なんて、
上空から見てる何かが遣わしてくれた
頼もしい使者にも思えるのです。

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