久々の自己主張

先日、久々に仕事で自己主張をした。
とある1人に対して結構強めの。

人が見たら「バチバチだった」と言われそうな。

 

そもそも私はそういう人でした。
でもこの数年、コミュニケーションそのものを抑えに抑えまくった。
「自己主張キャラ」というとこの反省もあって、「本当はこうすべきじゃないか?」というポーズそのものを見直すんだと心がけ、それは同時に仕事に対して「どうでもいい」と匙を投げることだった。

あんなに熱かったのにね、と思う人もいるかもだし、なんなら面倒な人だったのかもしれない。
この数年、自分でもずいぶん丸くなったと思ってる。
「いいよー」「いいじゃん」と何でも肯定できる優しい人になれた気がした。
自分の世界が丸く平和であることはいいことだ。

 

ただやっぱり、今の私にとって全肯定・優しさ・矛を収めるというベースには「どうでもいい」がある。

関係ない・責任取るつもりない・どうでもいい。
私が優しくなれるのは、心からこう思えた時。
それはコロナ前の私の定義では「優しい」ということにならない。

 

そりゃもちろん、愛が通い合ったような人間関係では、自分らしい優しさは発揮できてると思う。

一方で「どうでもいい」「関係ない」という距離感の素晴らしさも知った。
心の負担も減るし、相手に重さを感じさせないという良い面もある。
でも「優しい人と思われたい」ようなタイプからは概してある種の無責任さが漂う。
「考えないようにしてる」という抑制なのかもしれない。みんな事情があるのかもしれない。

 

2週間くらい前、もう1つ自己主張した。別の人に対して。

1年前から「言おう・言いたい」と思ってたこと。とある改善というかお願い。
でも、自分が言いたいことはすごく小さく思えるし、それで相手が傷ついた表情をしたら「言わなきゃよかった」と私も自分を責めるだろう。
それに本当に必要なら他の人もとっくに指摘をしてるはずだけど、そんな様子もない。

 

はっきり言って手を抜いてるように見える。
そんなの相手からしたら心外かもね。
体調が悪いのかな。体のどこかが痛いとか。
みんなそれを知ってて、「あの人には、ねぇ」と指摘しないのか。

1年ずっと考えてきた。
でも、そこを手抜きされると仕事の効率が悪い。
ほか誰もそこを手抜きする人はいない。なぜ誰も何も言わないんだろう?

 

思い切って改善お願いの主張をしてみたら、「それはやらないことにしてる」とのことだった。
そのあと、はっとした顔して、「あ、でも指摘ありがとう」と。

 

やらないことにしてるとはどういうことだろう。
その人は仕事の効率・みんなのやりやすさより、「自分のため」を選んできたということか。
その人はいわゆる「優しい人」なので、そのへんの混乱で1年モヤモヤしてたとも言える。

だから私はそういうことを指摘する人から降りたんだ。
仕事の効率もみんなのやりやすさも、もう知らん。
それなのに主張したのは、「自分がめちゃくちゃ面倒くさい」ということが限界だったから。

 

その人は今後やってくれるかまだわからない。
「私に怒られたからやる」とか思うかもしれないし、やんないかもしれない。
もうどっちでもいい。
「言えた!」という爽快感がただあった。

 

自己主張って結局自己満足じゃん、とも思う。
いろんなレベルがあるだろうけどね。
自分勝手だったり、全体のために勇気持って言うレベルだったり、正義感に似た支配とか。
今の時代じゃ「主張する(指摘する)」リスクって結構ありますね。

私は「このままじゃいけない!」「これを”あり”にしてはいけない!」と強く思ったとき自己主張する。
そこには自分なりの真剣さがあった。誰かには疎ましくても。
そこから降りたこの数年。
個人的な日常は本当に穏やかになったけど、自分らしくなかった。
優しい人だと思われなくてもいいから、自分なりの主張は取り戻していきたい。

 

 

しつこいんだけど、マニュアルにもあるから指摘・お願いしたんだよ。
それなのにやらないことにしたというのは、その人なりにケンカ売ってたのかもしれない。
優しくて普段おとなしい人の反抗ってそういうとこに出るんかな。これはこれで興味深いけど。

 

 

 

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