「錦繍」

「錦繍」
宮本輝さんの著書。
10何年も前に読んだことがある。

実家に帰った折にまた読もうと探してみた。
どんなストーリーだっけ。
確か、離婚した夫婦が錦繍=鮮やかな紅葉見下ろす蔵王のリフトで10年ぶりぐらいに再会して、そこから元夫婦の往復書簡形式で物語は進んでいったような。
20代でこれを読んだのだけど、夫妻のそれぞれの美しい文体に、
「こんな詩的に手紙綴る男いるわけないな…」とか、
主人公の女性・亜紀のお嬢様風の物言いや振る舞いばかりが気になって、自分とかけ離れた生まれ育ちの主人公に感情移入できなかった記憶はある。

だけど、今日再び読んでみた。
なぜだか、読み終わるまで涙が止まらなかったのだ。

電車内で読んでた時は、やっぱり
なんか大げさで詩的な文体に忌々しく思った20代の頃の気分が戻ってきちゃってたのだけど、たまたま今日から読んだ展開がこの物語の核心だったということなのかな。
そして、あれから10何年たった今だからこそ、今じゃなくちゃ響かなかった・理解しようもなかったことが次々胸に飛び込んできて。

何がびっくりしたって、スピリチュアル性にあふれた内容だったってこと。
いや、「スピリチュアル」なんて言葉も軽く思えちゃう。
「生と死」
「宇宙のからくり、生命のからくり」
「業」
「霊魂」
「来世・今世」
「過去・現在・未来」

20代のあの頃、こんなとこに一個も感慨を抱いてなかったと思う。
じゃあ一体何を読んでたのか。

この本に出てくる女性、
まず瀬尾由加子。
男主人公の有馬靖明が愛した女性で、2人で心中事件を起こして女は自殺してしまうわけだけど、この2人の出会いは14歳。
この女は、14歳の時からもう「業」をにおわせていて。
でも、靖明に言わせれば、
「誰にもない独特のいじらしさ」
を持っているという。

そして勝沼亜紀。
靖明と結婚してた女主人公であるけども、文面も服装も、いかにも社長の一人娘。
でも靖明に裏切られるくらいだから、おとなしめな貞淑な地味な方なのだろうなと勝手に想像していたら、これまた靖明に言わせれば、
「まさに一目惚れ」
ちなみに、そのあとに旦那となった勝沼という男も、すれ違っただけの亜紀に一目惚れしたという。

どちらも今でも自分に重ね合わせられない女性たちなのだけど、でも女性たちが自分と同じ年くらいだからだろうか、かなわないほどの美人にも逃れられないほどの「業」があって。
誰しもそれに苦しんでいるという確信みたいなものを抱きながら、同情というわけでもなく、今のこの年齢になってようやく「生」の悲しさに寄り添える気持ちが芽生えたというか。
とにかく、誰にも備わってる「業」に吸い込まれていくように、心震わせながら貪り読んだのでした。

そして靖明の手紙の何通目かからは靖明にまつわるもう一人の女性、令子が登場。
やっと出てきた!
私が感情移入できそうな女!

スーパーのレジ打ち、ただそれだけを10年近くやり続けてきて、鼻が丸くて顔が美しいわけでもなく。
定休日に弁当作ってピクニックに行くのだけが楽しみで、でも料理に凝るわけでもなく。
金をためて外国旅行に行こうと考えるわけでもない、着るものに金をかけるわけでもない。
あえて「愛情を感じてない」
と亜紀への手紙に記すものの、でも靖明に言わせれば
「いまだに思春期の少女のような清潔感が残っている」

この一文で、少なからず愛情を持っていることがうかがえて、なぜだか地味な自分に言われたように嬉しくなる箇所でした。

しかし!この令子こそ、私がなりえようもない女だった!

いい意味でしたたか。
でも、まったく計算のない、見返りを求めない愛情で靖明を受け入れる。
でもやっぱすんごいしたたかで、
「うち、ええこと考えてん」
と、商売思いついて、
「お前と別れる」と繰り返す靖明をうまいこと商売の車の車輪にして。
この令子の登場で、「死」と「絶望」が色濃く漂ってたストーリーが、一気に「生」へとV字転換する。

普段は無口な令子がとうとうと語るおばあちゃんの話が泣けてしょうがなかったのでした。

令子のおばあちゃんは生まれつき4本しか指がない。
でもその4本の指をまじまじ見ると、戦死した4人の息子のうち、3人はきっと来世で、いや、今世でも
姿を変えて自分と再会するだろうと信じてる。

戦争で勝った国も負けた国も
どちらの国のリーダーも、
戦争に加担した者は、みんな来世ではきっと人間として生まれ変わることはできない。
ゲジゲジとか、みんなが嫌う生き物になってしか、生まれてこれないはずだ。
と、おばあちゃんは考える。
そして自ら命を絶った者も。

令子は、靖明の心中事件の時の傷を指でなぞって
「うち、あんたが死んでしまいそうな気がするねん」と、ぽつり。

私の父は、私が物心ついた時から、毎晩酔っぱらって帰ってくる日々だったのだけど、
中学1年くらいのとき、
それはひどい酔い方で帰ってきたときがあった。
母と真夜中に玄関まで怒って迎えに出たけど、
階段の壁に体ぶつけながら、足引きずりながら、上へあがっていく父に対して階段の下から
「死なないでよ…」
と半べそで訴えたことを思いだした。

父は、死ぬ気なんて毛頭なく、絶望感から飲んでたつもりでもなく、私の言葉を聞いて意外そうに
「へ?へへっ、へへへ…」
と気持ち悪い嬉しさ笑いみたいのしてたけど、
そのとき私が抱いた何かは
「あんたが死んでしまいそうな気がするねん」
みたいな何かを嗅ぎ取ったんじゃないかなってことが思い返された。

この本で言われてる「死」は、鼓動が止まる「死」のことじゃなくて、それはつまり「生」でもあり「業」でもあるような、心臓が止まる以上に重いものとして表されてる気がした。

大体この有馬靖明って男が「業」にまみれた男でまた。
生きたいんだか死にたいんだか。
べつに生きてもいいけど、でも死んでもいい。
そんな生き方である以上、きっと「業」からは逃れられない。

でも、色気と魅力があふれてる。
亜紀の旦那だった時は、亜紀の父を継ぐ次期社長候補だった男が、襟に汗ジミできたようなシャツを着るほどに堕ちても。
酔っぱらって、迎えに来た女の前でもアスファルトに額つけて吐くほどでも。
その女の金で生活させてもらってても。
そして、時に女にいろいろな姿態を要求するようですがね。
でも、関わる女が心の底から愛さずにはいられないようなやさしさがあるはずの靖明。
自分の要求した色々なコトを自分で手紙で書き記すことはできても(悪趣味だけど)、どうしてそんなに愛される「業」を持っていたかには、自分では触れることはない。
それは亜紀の文面から、そして靖明が記す女たちの仕草や台詞からほの出ている。
役者さんだと、誰かなー。
真田広之さんかな…。
が、いいなー。

亜紀もまた、誰と結婚しても別の女を作られ、清高という障害のある子どもを授かり、それらはすべて自分の「業」なのではないかと最後に思うものの。
それまでは、靖明のせい、
父親のせい、今の旦那のせい。
でも、清高があふれさせる「生」を受け止め、「業」に覚悟を抱くと、亜紀の目に見える景色ががらっと変わってくる。

過去・現在・未来。
私は、どこに立っていたっけなと、足元を感じたくなる。
「過去」→「現在」と、
時になんにも積み重ねられてないように思えて「過去」を嘆くばかりの一日もあったり。
だからといって「現在」に腰据えることもせずに、「未来、未来!」と、焦りばかりが募ることもあったり。
でも、あの道を選んだ私が今ここにいる
と、肉体と宇宙と魂とDNAと…
「生」の不思議に、やたら感動することもあったり。

この作品は昭和57年に刊行ということだけど、宮本輝さんは30年も前から「宇宙のからくり」「生命のからくり」に思いを馳せられていたのだと思うと、この方こそ宇宙から何かインスピレーションを日々受けられて感じられていたのではないかなと推察されます。
「霊魂」「命」の話も、体験されてたのじゃないかなと。
臨死体験でなければ、幽体離脱のようなことを。
わかりませんが。

こういうストーリーを書く方は、どこかからそういうものを書くようにという「司令」が降りてきてるのではないだろうかと思わざるを得ません。

そして気になるのは生年月日。
・・・魚座でした。
やっぱりー・・・
水星も火星も魚座。
生と死、そして宇宙的なテーマは、この方の人生に不可欠なのでしょうね。

しかも月は獅子座か乙女座かはわからないけど、私の金星乙女座にぴったり乗ってました。
宮本さんの水瓶座の金星も対向から私の月を刺激している。
前世と関係のあるドラゴンヘッドは、宮本さんの木星ともぴったりだし。
呼ばれたのかな~。
時を越えて。
私がこれらの話を感動をもって受け止められるその日を待って。

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