自分の場合の生きにくさ

自分が「生きにくい」と思うときのパターン。

1・意見や個性を引っ込めるとき
2・人と比較して自分がダメと感じるとき
3・周りに理解されないとき

大体この3つかなと。
もともと思い込みが強いので、妄想はネガティブに膨らみやすい。
それも生きにくさに拍車をかける。
小学生のころから姉に「あんたって生きにくそう」と言われてた。
りぼんの後ろのほう掲載の「幸せになれるペンダント」がどうしても欲しいと親に泣きついたとき、姉から冷めた声でそう言われたのでした。

 

10歳くらいの私は何を感じて幸せになりたいと思ったんだろう。
誰かと両思いになりたかった気もするし、独占したい友がいた気もする。
独占したいのは本当は親かもしれず、ともかく「一生幸せ」という保証が欲しかったのかも。
心の底には寂しさが広がっていた気もする。
その寂しさを癒やすひとり遊びもたくさん覚えた。
着せ替え人形、カセットテープ作り、歌詞カード作り&歌唱、推しが載る雑誌を読むこと、ラジオ。

中学に入ってこのあたりを共有できる友ができ、心の大きな支えになりました。
小学生で言語化できなかった寂しさは「反抗」に形を変え、「ざけんじゃねー」とかのいわゆる不良言葉を発しすぎて、中1の担任から露骨に嫌悪されたりした。
それでも中学で生きにくさを感じなかったのは、いつも仲間がいて孤独じゃなかったからかも。
そんで反抗という「発出」が爽快だったんだろうな。
親を傷つける言葉も言ったし、友達に率直すぎて喧嘩もたくさんした。
それでもあのころ「自分中心」に疑問を抱かずにいれたことは大きい。

高校入ると、「自分より大人だ」と感じる人とたくさん出会う。
それは社会性を意識する始まりでもあり、「自分を恥じる」始まりとも言える。
電車内で騒いでたら「他の乗客のこと考えて!」と友達に注意される。
率直な意見を言ったら「きっつー」と男子に苦笑いされる。
授業中に笑いをとったつもりでいたら、まったく笑ってない女子が多いことにも気づく。
世界は自分中心じゃないと意識するのはストレスにもつながるけど、私の高校は陰惨さがあんまなかったので無邪気さを貫けたし、やっぱり仲間が常にいたんですよね。

そんで大学です。
上記2と3をたくさん体験しました。
まず金持ちが多い学校ということ。
サークルに入れば「東京都で○位」とかいう運動成績の人が何人もいたこと。
自分のことを特別卑下してなかったはずなのに、「ネガティブだね〜」と言われてしまう何かを発しているらしい自分。

今ならわかるけど、本当の金持ちって本当にポジティブなんだと思う。
生活不安を抱いたことないというたくましさ。
そりゃ自分は親のいろんなことがあって用心深くはなったけど、それが人の目にネガティブに映るとは思わなかった。
ネガティブ、ネガティブと言われつつ、どこか可笑しみがにじんでたから友達もできたんだろうけど、金持ちと比して自分の説得力や影響力って極小だなと痛感しまくった。
予定もバイトしかなく、夏休みの手帳は真っ白で笑われる。
次第に私は、日々を楽しいことで埋め尽くす大学生ってばかみたいだとひねくれていき、真正のネガティブを携える人間になっていくんだけど。

ただ「生きにくい」とはっきり感じたのは大学としても、上記1はまだ芽生えてなかったですね。

 

社会人になれば1の洗礼が外からやってくる。
つまり上司などから個性を出しすぎないようダイレクトに言われたりとか。
それでも新人時代は「はい!」とかって受け入れてましたね。
みんなに染まれるって有能な感じもした。
それもこれも、「わかってくれる人がいる」という安心感を部署内で抱けてたからかも。
人間関係って本当に大事なんですかね。
新人時代は上記2についてぐっさり傷つくことが多く、ただ、そこを底辺として徐々に仕事を覚えていくことはやりがいでもあった。
私にとっていよいよ生きにくさを感じるのは、転職先でとも言えます。

 

今も続く女性9割の職場。
そこで正社員となる。
「社員の鑑とならなきゃ」というプレッシャーを妙に自分にかけてました。
鑑とは「いい人」であること。
できるなら360度いい人。
それが無理でも180度はいい人でいようよと。
女性って250度くらいいい人の顔できる人多くないですか?
私は表面的にいい人でいても、背を向けた途端に影の真っ黒さがバレるんじゃないかと、そっちが気になってしょうがなくなった。
それでも200度はいい人でいようと頑張って、そんな私を「頑張りすぎw」と笑いながら慰めてくれる先輩が相次いで産休に入ってから、上記3の状態になり孤独を深めていきました。

「周りに理解されない」というのは、率直に自分の気持ちを言える相手がいないということで、上記1ともつながること。
それをこじらせると独占欲が強くなり、唯一わかってくれてそうな同僚を自分だけの親友みたいにしたくなる。
まるで小学生のあのころのように、「寂しい」という心の叫びが蘇ってくる。
それは30半ばにして独身という寂しさとダイレクトにつながる。
あのころはまだ、親友も恋人も独占していいものと思ってた。
そうじゃないんだと知るのは最近のことで、「埋めてくれる人たち」と勝手に期待した。
埋めてもらえなかった時にますます3の気持ちが強まり、周りが結婚するたびに自分が何かおかしいんじゃないかと自分を問題視するようになる。
そう、自分を問題視するなんてのは30後半になってから。

コロナも相まって生きにくさのピークを迎えてた私は副業先を見つけ、環境が変わったことで1・2・3がずいぶん和らぐ。
でも身についた1はしぶといです。
「傷つけること・傷つけかねないこと」に年々敏感になるムード。
自分の率直さが誰かを傷つけるんじゃないか…そう思ったら怖すぎて自分らしさクローズ。

私が許せないのは、そんな従順同調ムードに乗じて差別発言をして、まんまと同調を得る人がいること。そこでも自分を押し込めて同調する人がいること。
いや、押し込めたんじゃなく真正の同調かもしれない。
だとしたら、なおさら自分は毅然としなきゃいけないんだ。
でも・・毅然とする自分をへし折ってしまうこともある。
そうじゃないと生きにくいと感じたからへし折る。
そうやって生き延びてきたとも言えるけど、押し込められた自分の怒りがすべてを上回るようなコンディションも数年に1度あります。
そんな自分をやり過ごすことができたのも奇跡なのかもしれない。

 

 

 

 

 

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