「わたし、定時で帰ります」を見ると、毎回感想を書きたくなります。
毎度ジーンときちゃう。
吉高さんの演技にかな。
みんな本音でぶつかり合ってるからとか。
なんだかんだ互いを見放さないからなのかなぁ。
今日は星の話はほとんどなし。
思うままに感想を(結構どっぷりと)。。
私にも、内田有紀さんみたいな先輩がいた気がした。
産休に入ったとか、何かおうちのことで忙しくて退職だか休職したような先輩。
「聞くことしかできないけど、いつでも電話しておいで〜」
そう言ってくれる先輩や友達が私にもいた気がした。
いつからか、育児とか各おうちの事情にすごく気を遣うようになった。
「こんな話(ただの愚痴)忙しいあの人に聞いてもらうなんて申し訳ない」とか。
”気を遣う”ということの何が正解かわからないままピリピリ年だけ取っていって、相手からしたらどれも「そんなこと気にしなくて大丈夫だよ」って言ってくれることだろうけど。
気づいたら「1人で対処できます」という自己完結のバランスをどうにか保ってる。
後輩に対する私だって、何年か前は「なんでも聞くよ。いつでも言ってきて」って結衣みたいな時代あった気がする。
「ファミレス行こうか、ね」とかなんとか先輩の顔を堂々とできたんだ。
そんなことももう言えない。なんとなく誘えない。
そこでまた「ほっとくのが一番」「人のこと抱えちゃいけない」って気を遣うことが正解っぽい振る舞い。
近頃は誰か辞めるときも突然。
「相談してくれたらよかったのに」とか言って、体ごと開いてくれようとしたことあった?
誰かにも自分にも心の中で問う。
どれも「気がする」ってだけで。
そんな先輩いなかったかもしれないし、後輩を温かく気遣ったのも私じゃなかったかもしれない。
でも、いつも終電近くまで仕事が続くうちにやり甲斐もすり減って、「何もかもうまくいかない…」って電話口で泣いちゃう結衣みたいな苦しさは、やけにリアルに蘇ってきました。
「わた定」を見てると、どれもこれも「今では失われたもの」のように思えてしまいます。
人間関係はいつだって「踏み込む」「ぶつかる」が信条だったのだけど、あるときからただ恥ずかしいだけの熱さに思えてなんとか引っ込めた。
距離感が大事なこの時代
ほっとく・空気読む・適度に流されつつできるだけ辛抱する。
今の私にとってもそれが心地よくなってしまっている。
「ほっとかれてるのは・辛抱してるのはお互い様だよ!?」
これが正論みたいな今でさ。
「相手に何か指摘するなんて、自分がされて嫌なことはすべきじゃないよ」
私はこの「されて嫌なことはしない」という主義が苦手で、そんなの相手が本当に何を望んで何を嫌がってるかなんてわからないのにさ。
迷惑かけられてこそ深まって・知っていく過程をまだ信じたいというか。
いつからこうなったのだろう?
どんどん思い出せないのですよ。
「わた定」を見てると、ぶつかり合いの中に思いやりがすごく見えるから、それこそが「関係」なんだと、私もいつかまでそうであったはずなのに…という喪失感ばかりが浮き彫りになる。
甥っ子に受験のアドバイスをしたら、それからLINEはブロックされ。
それでも正月が来たらにこにこお年玉を渡すわけだけど。
私が変わらなければ人に・時代に嫌われるとわかってはいるんだけど、知るもんかという心境にもなりつつある。
「(距離を置かれるのは)あなたの何かがいけなかったんじゃない?」
それはわかる。そんなことはいつだって反省し悶々としてきた。
当たり障りのない穏やかさや明るさ、付き合いやすさをずっと発信してないとならない生き方は、できないなと常々思っているから。
だからあのドラマを見ていちいち胸打たれるのかもしれないです。
だから本音押し殺して気を遣うばかりの巧・中丸さんにイライラするのだとも思う。
水星座の太陽の人たち多いんですよね。だから「どっぷり」なのかな。人間関係。
吉高由里子さん(蟹)、内田有紀さん(蠍)、シシド・カフカさん(蟹)、ユースケ・サンタマリアさん(魚)
でも風星座も多いです。それも絶妙なバランスなのかも。
向井理さん(水瓶)、柄本時生さん(天秤)、泉澤祐希さん(双子)
なんでも「時代のせい」とかってどこか被害者意識みたいになっちゃうものなんですよね、愚痴というものは。
せめて「書く」という行為の中には本音を込めていきたいと思ったのでした。
最終回が惜しい!!