映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」

映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」(2001年)は数週間前にU-NEXTで見ました。

主人公ヘドウィグは、旧東ドイツ生まれ・ドラァグクイーン・トランスジェンダー・そしてロックシンガー。そのヘドウィグの愛の物語です。自分の魂の片割れを探そうとする。


amazonより)

「アングリーインチ」とは「怒りの1センチ」
つまり女性への性転換手術の失敗で、1センチ残ってしまった。
この1センチが壮絶な破局・究極の怒りまでもたらしたという。

この作品はもともとミュージカルで、ジョン・キャメロン・ミッチェル氏が原作・脚本・監督、そして主演のヘドウィグも演じてます。
ヘドウィグが美しかった…
特に恋に落ちたとき。

あの若い子が自分のライブを見に来た。
これから恋に落ちるしかない2人。

このシーンがとても好きです。
この表情は一体誰ができるだろう。そう思うシーンばかりだった。
体の芯までマイノリティーと痛感してる人にしか表れない表情じゃないのかな。

日本版ミュージカルでは、森山未來さんがヘドウィグ役を演じたようです。
この間の「ダウンタウンなう」で、そのことに少し触れてました。
森山さんはこの役をやるにあたり野宿生活をしたと。1ヶ月も!!
ヘドウィグにはホームレスのエピソードなどないにもかかわらず。
…やっぱ森山さんすごいと思った。
ヘドウィグを演じるからには、地を這い回るようなどん底生活をするしかないと。
マイノリティーの役ですもの。しかもベルリンの壁崩壊前後を生きてきたヘドウィグ、若い恋人に拒絶された上、自作の曲を盗られてしまった屈辱。若い恋人はその曲で今や人気ロックスターに。

ダウンタウンと坂上さん・若槻さんからはただただ変人扱いしかされてなかったけど、そりゃこの人らにわかりっこないと思った。
森山さんは表現者としていわば成功者だけど、それらから解き放たれようと、どこか持たざる者でいようとする。
そうじゃないとにじまないリアルさ。そうまでして表現したいこと。
ヘドウィグはそうでなくっちゃ…。

また、ヘドウィグの夫役・イツハクが切ない…。

イツハクも元ドラァグクイーンですが、女としての格好をヘドウィグに禁止されている。
イツハクにとってそれは虐待に近いほどつらいこと。夫婦でありバンド仲間の2人はそういう歪んだ関係。
この俳優は女性です。
そのあたり、ミュージカルを観ないと分かりにくいところがいくつかあって、調べながら見て、見てまた調べて…いろんな人の感想や解説に助けられました。

プラトンが唱えた「愛の起源」をもとに作られた歌の中では、かつて3つの性があったとヘドウィグが歌う。太陽、月、地球。
それらが神々のいたずらで割られ、みんな自分の片割れを求めて彷徨う。自分の片割れは…

この2つの何に胸打たれたかというと、置き去りにされゆくものに焦点が当たったところかな。
人は新しいものを求めるし、そりゃ明るいほうがいい。朝顔とヘドウィグは陰がある。
希望も宿してるんですけどね、人に時間に追い越されていく。
流れの中で立ち止まる朝顔とヘドウィグに惹かれたのかもです。
ジョン・キャメロン・ミッチェル監督がそんな人です。牡牛座。
よりよいものを作るために時間をかけて思いを込める。
インタビューでは、今の若者を猫のようだと警鐘を鳴らします。

ョン・キャメロン・ミッチェルが語る愛とパンクとジェンダー

それで、ドラァグクイーンといえば思い出されるのがローラであって。
歌い・踊るヘドウィグを見て胸を締め付けられたのは、三浦春馬さん演じたローラの面影を見た気がしたからかもしれません。
独特の美しさと切なさを併せ持つドラァグクイーン。
ヘドウィグを見て、誰もこの美しさにはかなわないと思ったけど、春馬さんが演じたローラも飛び抜けてた。この大いなる長女感。
春馬さんはこの役をやりたい!と自ら申し出た。その意味ってとても深いと思う。
このなんとも憂いを帯びた切なげなドラァグクイーンをやりたいんだということ。三浦春馬さんの視点はいつもどこにあったかが、自ずと伝わってくる気がした…少なくとも上から見る人じゃない。もっと深いところを知ってた人・知ろうとした方だったんじゃないのかな。

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